ブログ

2015年10月6日

小さな国際人・大きな国際人 そして、おぞましい国際人 ~私のささやかな「国際」体験から~ [その2]

井嶋 悠

《10月のトピックを加えて再整理した》


小さな国際人

 

これは、20年以上前にさかのぼるだろうか、帰国子女の知見を活かして、日本社会、学校社会の活性化への期待を込めてされた表現である。
文科省の統計によれば、一昨年(2015年)の帰国児童生徒は、小学校6,604人・中学校2,408人・高校2,053人、中等教育学校83人の、合計11,146人である。つまり11,146人の「小さな国際人」が帰国した。この数字は毎年ほぼ同じである。
果たして、受け容れる大人、とりわけ学校社会・教員の意識はどう変わっただろうか。 彼ら彼女らが、学校や社会に何を還元することを期待し、それをどう実践しようとして来ただろうか。
これは、33年間、帰国子女教育・外国人子女教育を意識した私学中高校数校に在職し、10年前に退職した私の、一期一会の悔悟を底に置いた、内省からの断片的自問である。

☆英語以外の言語(外国語)への配慮の少なさはなくなっただろうか。

海外で身に着けた英語以外の言語の帰国後保障については、その言語を主軸とする学校以外、ほとんどなかったが、今はどうなのか。 なぜ、保障が難しいのか。
英語が国際最優先語としてある限り、週時間数及び課外活動時間数と講師  と生徒数の比そして人件費からの限界である。公立も同様かと思う。  その点、英語を第1言語とするインター校は余裕がある。
こんな生徒とも出会った。
日本人学校中学校を卒業後、1年だけインター校に在籍し帰国し高校に編入 した男子生徒。日常会話程度の英語力であったにもかかわらず「帰国子女枠」で某有名私学に入学(試 験は、書類と面接のみ)したときの本人の言葉。「こんなんで良いんだろうか。」
その良心溢れる生徒、大学入学後、強い不安定状態に陥った。

☆「隠れ帰国子女」はいなくなっただろうか。

日本人学校出身者は、帰国子女と呼ばれることに抵抗する傾向があった。その背景にある帰国子女=英語ペラペラ風土のため。 「ペラペラ」との軽薄の極み的用語が象徴しているが、地域によって日本人学校生徒の非常に限られた日常への理解は進んだのだろうか。
また英語ができる=優秀、という“日本性”に反発した英語力の非常に高い女子生徒。教師と翻訳業にはなりたくないと心に決めていたが、翻訳業に就くことになり苦笑していた。
ところで、英語圏以外の現地校在籍生徒への理解と対応は進んだのだろうか。 ドイツの現地校に2年間在籍し、爆発寸前までに追い詰められて帰国した高校編入した男子生徒との出会いがあった。

もう一つ。上海の現地校(中学校)国際クラス(英語による教育を主にしたクラス)に在籍した女子生徒。私の在職校に受験したが、日本語・英語・中国すべてにおいて不十分との理由で不合格に。私もその決定の一員ゆえなおのこと、その生徒のことは機会ある毎に辛く思い起こされている。

☆作文評価での国語科と社会科教員の教科意識はどれほど改良されただろうか。

これは、作文テーマの内容によって一概には言えないが、両科教師の内容優先からの評価で良いのかどうかとの問題で、社会科と国語科の評価は、違って然るべきではないのか、との学習指導方法とも関わることである。
またその際、「基礎学力」への学校としての明確な視点が必要となる。(あれも知らない、これも知らない、との教師発言はよく聞かれることである。もっとも、これは大学併設校での、高校への大学教師の苦情としてもよくあることであるが。)
基礎学力がないため目指す教育の実践が難しい、しかし基礎学力に係る学内合意の不十分と入試方法とのジレンマにあった心ある教員たちが在職していた新しい教育を目指す学校は、今どのような教育を展開しているのだろうか。

☆国語(科)教育と日本語教育の連動はどこまで進んだであろうか。

日本語教育を経て国語(科)教育へ、とのタテの連動はしばしば言われるところだが、両教育のヨコの連動はどれほど深められているだろうか。 これは、言葉と学力そして[表現と理解]での、それぞれの学年齢での学力観につながることである。
学力優秀ではない或る私立大学で、日本語教育に係わりのある教員たちが、表現と理解の教材を編集作成し、実践指導を行っていた。

☆積極的、能動的人物を高評価とする視点は今もそうなのだろうか。

私が出会ったアメリカ現地校から帰国女子生徒の次の言葉は、今も心に強く響いている。
「日本に帰ってホッとした。なぜって、アメリカでは常に自身をアピールしなくてはならず、いつも背伸びして疲れ果てたが、日本では自身のペースで静かに在ることで存在感を認められるから。」
尚、その生徒は全米で非常に高いレベルのテニス実績があり、帰国後、テニス名門校に誘われ入学したが、練習方法での違和感とそれによるけがで、私が在職していた高校に途中編入した。

併設のインター校の明るく陽気な典型的アメリカ人と同僚から言われていた社会科の男性教員。シンガポールの名門インター校に異動し、休暇で日本に立ち寄った時の言葉。「日本が良い。なぜなら、あちらはとにかく私が、私は、の世界で疲れる。日本に帰りたい。」であった。

☆企業の要請に応えるのが帰国子女教育との視点は今も有効なのだろうか。

「産学共同」に疑問が提示された時代に学生生活を過ごしたからか、そもそも企業不向きの人間だからなのか、この視点には驚いたが、今はどうなのだろうか。
そもそも企業派遣の実態が、例えば私が係わり始めた1970年代と今では、大きく変化しているが。

☆日本人学校派遣の管理職、一般教員問わず、私自身幾つか見聞した、現地在職中また帰国後の“醜態”は、もう過去のことになったのだろうか。

これは、派遣経験の先生方を問わず、ほとんど不問にする教員が多いが、私学教員であったがゆえか、或る日本人学校を訪問した際、現場教員から秘密裏に相談の夕食会に招かれたことがあった。内容は管理職の横暴といった非常に難しくデリケートな問題で、私が助言できるようなものではなく詫びるしかなかったが、その数か月後、校長と異議申し立てをしていた現場教員何人かに、文科省より任期途中での帰国命令が出された。喧嘩両成敗ということなのだろう。
海外派遣教員は、公・私立学校教員の勤務(待遇)制度の違いもあって、ほとんどが公立の小中学校教員で、文科省からの派遣の形を採っていて、その待遇は非常に恵まれている。旧知の教員で校長として派遣された人が赴任先の立派な住居を見て、この恵まれた環境をしっかりと心に留めて精励したい旨言われていたことが、そうでない居丈高な教員事例を知っていただけに、一層印象に残っている。
まだまだ脳裏に浮上して来るが、思い起こせば起こすほどに、いかに多くのことを学んだか、しかし何もできなかった私がいる。

海外帰国子女教育は日本を映し出す縮図である。 そして国内の学校世界は、国内の政治・社会を見事なまでに映し出す。否、学校社会が、政治・社会を創り出しているのかもしれない。
日本の確かな国際化!と日本の存在感への活きた智恵の担い手たちへの教育、海外帰国子女教育そして二重国籍所有者を含む外国人子女教育の重層的展開を、元教師だからこそ言える傲慢との指弾を十二分に承知しながらも願っている。

 

大きな国際人


これは、先日、南アフリカに歴史的勝利を遂げ、一昨日(10月3日)にサモアに快勝した日本ラグビー代表の試合を見て、先の「小さな国際人」と併称したく、私が勝手に言っている言葉である。
私たち夫婦は、サッカーよりラグビーに強く魅かれているので、以下の内容は妻も同様の思いである。 (因みに、妻は長男が小学生時、ラグビーを薦めたが彼は拒み、中学で軟式テニス、高校で硬式テニスに励み、そこそこの戦績を残した。なぜ、ラグビーを断り、テニスに向かったかは、少年期後半時から鮮明になった彼の個性で、私たちは大いに得心している。)

日本代表メンバーは30人で、内、外国出身選手(日本国籍取得5選手を含む)が過去最多の10人で、主将は、ニュージーランド人の父とフィジー人の母を持ち、日本人女性との結婚後2013年に日本国籍を取得したリーチ マイケル選手(国籍取得に合わせてマイケル リーチを改めている)である。副将は五郎丸選手。
テレビ中継(録画)を観ていて、得点の要になっている多くは外国出身選手で、かつての日本代表ではほとんど見ることができなかった強靭な肉体からの力とスピードの、地響き的闘志に溢れていた。
これは、ヘッド・コーチのエディー・ジョーンズ氏(彼の母は日本人で、夫人も日本人である)による、世界で例を見ないほどの4年間の徹底的鍛練の成果とのことなのだが、コーチや監督の言葉を実現させるのは選手であり、サモア戦で元日本代表の大畑氏と共に解説をしていた元日本代表で、エディー・ジョーンズ氏の下で前半期アシスタントコーチであった薫田氏が言っていた。
「これまでも同じような練習は重ねて来た。」と。
それが、なぜ今回光栄を勝ち得たのか。そこには外国出身選手の存在があったからだと私は思う。
彼らの体力とエネルギーと感性(センス)の日本人選手への影響、相乗効果そして信頼関係。彼ら「大きな国際人」あっての歴史的勝利。 しかし、予想通り!外国出身選手が多過ぎるとの批判が出ているそうだし、そもそもテレビで、彼らがあってこその今回の栄光表現が、極力(意図的?)抑えられているように思えてならない。 中高校教師時代の或る時期、女子サッカーの監督をしていたとはいえ、私の無知なのか、テレビの保守性、閉鎖性、或いはこのような大会があるとしきりに叫ばれる「日の丸を背負う」に見え隠れする国粋性なのか。

ラグビー代表は以下の3条件と実に緩やかで、だからこそ今回の戦績につながったのではないか。

【代表条件】  ・出生地が日本   ・両親、祖父母のうち一人が日本出身  ・日本で3年以上、継続して居住

彼らは、日本、日本文化、日本人との出会いから日本を愛し、日本で生き、鍛練し、代表に選ばれた、日本・日本人が名誉に思い、敬愛すべき人たちではないか。
南アフリカ戦中継でアナウンサーが「大和魂」と一瞬叫んでいたが、あれはどんな思いからなのだろう?未だに根強くある武士(というよりサムライ?)の猛々しさを言いたかったのだろうか。

江戸時代の思想家で日本文学研究者・本居 宣長の多くの人々を引きつけてやまない歌。(本居宣長は「大和心」と言っているが、一応「大和魂」と同意語として扱う。)

「しきしまの やまと心を 人とはば 朝日ににほふ 山ざくらばな」

漂う深い静けさ、清澄な美しさ。そこに直覚する大和心(魂)。

ラグビーでのトライをした後の選手の静。 先のアナウンサーはその後言わなかったのは、場違いを自覚したのだろう。

オリンピックや「世界×××」とのスポーツ大会が開かれ、日本人選手も多く参加しているが、無責任な叱咤、期待が多過ぎないか。とりわけ格闘技的要素の強いスポーツの場合。
しばしば聞く敗者日本人選手の言葉。「世界の壁は厚い・厚かった」。 この究明はどれほど行われているのだろうか。
協会や政治家は、相も変わらず国粋的精神論を言い、報奨金を持ち出す、その軽佻浮薄。
若い選手を育てるための学校課外・部活動やクラブ組織の、国際性(広い視野と合理性)を持った指導者の育成とその人たちの生活保障の体制作りはどれほどに進んでいるのだろうか。

英語なくして未来はないような言い方で進められる小学校での英語学習、「主要5(4)科目」が揃ってできて優秀或いは当然視する個性の画一化。塾教育失くして受験なし。そんな日本にあって、体質や気質の遺伝的要素、歴史的要素からアジアでトップであっても世界で通用しない現実に眼を背けたようなメダル狂騒。これって、慢心そのものではないのか。
かてて加えて、熱しやすく冷めやすい国民性と言われて久しい日本人。 例えば「なでしこジャパン」。既に退潮傾向のようにも思えるが、その前の「女子ソフトボール」の熱狂は今どうなのだろう? 選手はマスコミのブーム作りの道具に過ぎないのか。

その日本で、幾つもの大会が、そして再びオリンピックが開かれる。そのための準備、招聘そして実施のための様々な工事、施設建設。そこに動く莫大な経費。 政府等はその経済効果を言うが、高齢化と子どもや働き手の貧困が問題になっている今、それらの大会開催に際し、大都市圏だけでない全国視野で、いつ、どのような効果が表れるのか、具体的説明はどれほど広く行われているだろうか。
その専横的偽善さえ直感する中で、エンブレム問題で見事に露わになった開催主体者・機関の密室性と責任転嫁と恐るべき金銭感覚。これは、2020年東京オリンピック招聘での、当時都知事の、各国理事たちを前にした招聘スピーチでの「私たちはキャッシュで用意できる」と手を振り上げ声高に言った下品に、私の中ではつながっている。

「権力を持つこと」の愉悦に浸り、自身を超人か神かのように自負しているとしか思えない国民(納税者であり、国債購入者)への愚弄、冒涜。 結局は、カネ優先の日本でしかない、と批判されて、真っ当に応えられるのだろうか。まあ、10中8,9弁舌さわやかに応えるのだろうけれど。

このカネ指向は、最近の大相撲にも言える。
国技をしきりに強調する人が多くある中(私は、鍛えられた肉体と髷と浴衣、着物姿に艶(つや)やかな華の美を思う、江戸期感覚での愛好者で、国技などと言う堅苦しさにどうしてこだわるのか全く理解できない一人である。)、現実にはここ何年か外国人力士で優勝が争われ、それを憂える人も多い。
挙句の果てに、あれだけ誉め讃えていた白鵬関(横綱在位中8年余りで、30歳!)を、或る時期から手のひら返したようにそしる人々、マスコミ。そんな人が、己が人をどこかに捨て置いて国技、国技と言う滑稽さ、馬鹿馬鹿しさ。

騎馬民族と農耕民族では、遺伝的資質として上半身、下半身の強さの違いがあるといった学説を読んだことがあるが、仮にそうだとして、では日本人力士の台頭を叶えるならばどうすれば良いのだろうか。

年6場所に加えて途方もないほどに組まれる巡業日程、そしてけが人の多さ。なぜ4場所制に戻そうとしないのか。高い入場料と満員御礼にこだわる協会、NHKの姿勢。 そこに力士をあたかも道具扱いにしたかのようなカネ優先指向を観るのは、あまりに偏った、非国民的なことなのだろうか。
現代日本と若者論にある“ハングリーさ”の喪失はよく言われるところだが、大相撲界の次代を担おうとする若者の減少はやむを得ないのだろうか。

ラグビーは15人での競技だから同列に言えないが、今回の日本代表のような国際人の働きを、かの根性論ではなく日本に向ける視点はないだろうか。 日本人の国際化のためにも。

 


おぞましい国際人

 

これは「国際人」の項に入れること自体に甚だしい疑問を持つが、なんせ世界(彼の言葉で言えば国際?)のリーダーを自負する、一国の貌(かお)?!である首相なのだから並べた。但し、おぞましいである。
英語もしくは外国語堪能=国際人とは思えない私で、歴代の首相で英語力に自信?があったがために、とんでもないことになった事例も聞いたことがあるので、見方によっては矛盾を承知で言う。
国の命運を左右するほどの権力を持った存在で、他国が唖然、冷笑し、一部(と思いたいが)のアメリカ人でさえ苦笑するほどに追従(ついしょう)し、国民の、自衛隊員の命を多数党の暴力で、戦後だけでも朝鮮半島、ベトナム、中近東に、己が絶対正義、世界の警察意識のアメリカに委ねる法案を、憲法改正!を視野に強行突破させた人が、英語の研鑽を全く感じさせない、その神経が怖ろしい。

【余談:元教師として適不適賛否あろうかとは思うが、私の場合「せる・させる」の使役助詞を、生徒・      保護者にどの程度使うかが、私の教師評価基準でもあった。】

そして、税金をまるで私物化するように外遊に、海外諸国・地域に供与し、日本の平安生活と大国振りを顕示し、自身に取り入る一部の国民しか眼中にない厚顔無恥、痛みとか哀しみなど己が辞書にないかのように多くの国民の厳しい現実を見て見ぬふりの非人間性。
ポスターに口髭〈ヒトラー髭〉を書き込んだ初老男性に拍手喝采する人は、私も含め多い。
そんな人間が国際人であろうはずがないが、彼を支持する人が多いのだから致し方ない。 正におぞましい、である。
「学ぶ」は「真似ぶ」から転じた言葉との由。A級戦犯の一人であったが、無罪放免となり、後に首相として日米安保条約を強行採決後辞任した祖父を真似ようとでもしているのだろうか。

尚、A級戦犯の主、東条英機の処刑を前にしての辞世の歌から二首引用する。 現首相、内閣、与党を支持する40%前後の人々にとっては感慨ひとしおなのだろうか。

「明日よりは  たれにはばかる ところなく 彌陀のみもとで  のびのびと寝む」

「今ははや 心にかかる 雲もなし 心豊かに 西へぞ急ぐ」

更にこんな報道もあった。 首相の最大支え手?の官房長官の、有名芸能人結婚に係る「産めよ、増やせよ、国に貢献せよ」発言。ここまで下卑てしまえば言葉が泣く。
これらについて、また同系の教育世界で仕事を共にした人々のことは、何度も触れたし、これ以上自身を寂しくさせたくないので止める。

安保法案強行採決に際して、それに同意した議員を次回選挙で落選させよう、とのアピールを知ったが、先ず私たち一人一人がこれまでの棄権を内省し、そこからの連帯を、と思う。 私は与党野党支持なしの無党派であるが、政治を変える息吹に加わることは可能だと思っている。

テレビのニュース等で、首相が映ると直ぐにチャンネルを変える人、「もう、日本は終わりよっ。徹底的に叩かれてやり直さない限り無理っ。」と言っている人も周りに多い。私もその一人だが、だからと言ってあさはかな“英雄(ヒーロー)待望”者でもないし、“最終戦争”願望者でもない。

それまで政治への積極的関心者ではなかった私が、今、目覚めつつ?ある。古稀の功?

 

2015年9月30日

小さな国際人・大きな国際人 そして、おぞましい国際人 ~私のささやかな「国際」体験から~ [その1]

井嶋 悠

《今月(9月)中に投稿したく整理したが、いささか長くなったので2回に分けることにした。ただ、今月のトピックの引用が[その2]のため、次回、場合によっては違和感をあたえることになるかもしれない。》

 

私は国際人ではない。そのかけらもないと思う。かと言って、狭隘な国粋人でもないと思っている。 後で記すように、英語が、外国語ができないから、との(或る意味単細胞的)理由ではなく、私に「際(きわ)」に生きる意思力、精神力がないからである。しかし、いろいろな巡り合わせから「国際」に縁ある学校世界(3校)や難民センター経験(日本語教師)を重ねた。 今回はそんな人間の「国際」についての私感である。 娘は、そのようなことに考えが及ぶ前に早逝した。生きていたらあれこれ話ができたかと思う。残念だ。

国際(化・社会)は「国」を前提とし、グローバル(化・社会)は「地球全体」を前提とする用語かと思うが、いずれにせよ“絶対”という傲慢に細心の注意を払いながら、その用語の再確認或いは自問(再自問?)を通して、日本の現在を再考する時に迫られている、と重ねて思う。
私の言葉の土壌は、とにもかくにも「国際」を意図した、私学中高校の国語科教師(専任としては3校)を心棒にした多様でスリリングな33年間であり、「子を持って知る親の恩」を、「良妻は夫を良夫にする」(元は英語のことわざのよう)を身をもって知る晩稲(おくて)も甚だしい古稀を終えた70年間の人生である。 とにもかくにも? この言葉には、いささか不穏な響き、私の傲慢が出ているとは思うが、やっと私の「国際」が言えるようになった、その軌跡でもある3校での心に強く刻まれ、考えることを促した体験事例を挙げることにする。

[尚、「帰国生徒」「帰国子女」の二通りの表現について、後者の「子女」の字義から前者を使う傾向が多い が、「子女」の意味には男女あり、前後の文脈から私の単なる感覚で両語を使っている。]

このことは、虚栄と慢心が増幅する世にあって、呻(うめ)く大人や子どもが、静かにしかし激しく内に、内に向かっていると直覚する現代日本での、公教育の限界と、今も続く学校(一部の教師/生徒/保護者)の独善と驕慢への、娘の死に到る発端者である同業の中高校教師の一人としての、痛切な自省ともつながっている。
言い古された言葉「カネ・モノ・ヒト」のヒトとは、どんな“ひと”を言っているのだろう、と。

一つの学校は、名称に「国際」はない伝統と優秀生徒を誇る中高大併設女子校で、英語教育(中でも中学校)では、この100年変わらず日本随一だと、門外漢とは言え私は思っている。 その高校に編入した帰国生徒第1期生(アジア〈日本人学校〉・アメリカ〈現地校〉・ 中米〈日本人学校とインター校〉からの痛罵。「この名門校が、何で国際!?」

【私見】
独善と権威志向(例えば、人を学歴から判断する指向)の生徒に耐えられなかったのだろう。いわんや、高校からの編入ゆえ、中学で難関入試を潜り抜けて来た自負高い生徒から白眼視を受け、一層強くなったことが想像される。
3人の生徒たちは併設の大学に進学し、帰国子女教育に係る卒論に取り組み、指導教授からの依頼もあって、当時、校務で帰国生徒担当をしていた私は協力者となった。
彼女たちは、帰国子女教育で常に問われる変革の期待を込めた課題「学力観」を、自身の海外での生活体験、学校体験から問うたのであり、そこから「なぜ、世界を視野に生きる女性の育成を目指し、明治時代に創設(創設者はアメリカ人女性宣教師)された学校が改めて『帰国生徒受け入れ校』として名乗りを挙げたのか」と提起したと考えている。
それから30年余り経つ。学力観(私の場合、国語学力)はどう変わっただろうか。旧態のままで学力評価が行われている、と言えば言い過ぎだろうか。「AO入試」なるものが採用されて20年以上経つ。当時、心ある大学教員は、既に小論文等での表現の画一化を指摘していたが、塾講師も含め教師指導法での、己が“雛型づくり” は変わったのだろうか。大同小異ならば、なぜなのだろうか。

尚、学園は「高校からの受け入れ」を10年程続けたが、内部改革等々もあって退いた。

 

一つの学校は、創設都市からのイメージと時代様相を読み取った戦略から「国際」を冠していたが、実態は塾との裏提携とも言える“典型的”新興(女子)進学校である。

【私見】
1991年新設期に夢を抱いて異動。しかし、学園組織上副校長(実質は校長)を中心とした閉鎖性、独善性による異常なまでの現実志向!に耐えられず2年で退職。帰国生徒、外国人生徒受け入れを言ってはいたが、あくまでも現実志向からの言葉に過ぎなかった。
尚、その総合学園学校法人理事長で仏教徒の先生とは人間的接点を直覚することがあって、 退職後も交流が続き、理事長最晩年、「遅すぎることだがいろいろなことが明白になった。」と私に悔悟と謝罪を言われ、1年前、還浄(げんじょう)された。
保護者達からも疑問、不信と改革の希望が提示され、私は微妙な立場に立たされたが、既に退職届を提出していて、何ら働きを為し得なかった。
そのことと言い、理事長とのことと言い、《現実》の複雑さを思い知らされたが、それはあくまでも個人的学習であって、家族への犠牲は甚だしく、にもかかわらず家族の献身的支えがあって生き長らえることができた。

 

一つの学校は、「国際」を冠する、1学年75人前後の、帰国生徒と外国人生徒を主対象に、一般生徒(この表現には未だに違和感があるが、他にないのでこのまま使う)を加えた私学中高校と、インターナショナル・スクールとの、1991年に創設された日本で初めての協働校である。
基本的に教科、課外活動は、英語力によって可能な限り両校生徒の合同クラスが作られ、英語によって行われる。また、その逆のインター校生徒の「国語」への参加もある。
インター校は、外国籍(日本との二重国籍も含む)が原則の、英語が第1言語学校社会(幼稚園から高校まで)で、日本語は「JS(JAPANESE AS SECOND LANGUAGE)としてあり、そこに5名ほどの日本人日本語教員が在籍する。
小学校(或いは幼稚園)から国際バカロレア[IB]プログラムを採用している。
この協働体制は、当時、教育界、研究者間では「新国際学校」と称されていた。 私の場合、中学3年次の「国語」に出席していた生徒(日英の二重国籍)とその生徒が高校2・3年次、他の生徒とともに、IB最終課程「日本語」上級クラスを担当。

【私見】
先の退職後、何という幸い!いろいろな人びとの救いを得て2年間の浪人生活の後、最初の専任校の退職時校長の尽力で就職。48歳の阪神淡路大震災の直前である。
そこに到るまでの留学生やインドシナ難民への日本語教育の経験を重ね、その協働校で自覚した「国際」。 得た糧はあまりに多く、多様で、それは際限なく思い起こされるほどで、ここでは教職員・生徒に分けて、1,2の体験(具体的事例)だけに留める。
鮮烈と清新さで胸に迫って来たことは、日本側に所属した帰国子女であり、外国人子女であり、そしてインター校関係である。
ただ、残念なことに、私は、日本側の当時の校長との軋轢、と言うよりは幾つかの限界を痛覚に自覚するに到り、妻の理解を得て、定年1年前59歳で退職し現在がある。
それから10年、私の退職後、某私学法人に統合され、現在「新国際学校」と言われることはない。

〔インター校の教職員との交流〕
○以心伝心から言葉へ? 言葉から以心伝心へ? 初めに人がある? 初めに言葉がある?
バイリンガルであろうとモノリンガルであろうと(私は後者で、英語力は40年余り前の公立中高 校の英語中レベルで、一方インター校で日本語が理解できる人はごく少数)、相互理解は先ず人 があってのことを知る。言葉の前に人であり、そこでの直観力の大きさである。  そして、心割って話せる英語話者の、イギリス人、アメリカ人、オーストラリア人、カナダ人、  またアジア系の人を知る。

二人の英語母語者の言葉を引用する。
「あなたの公立教育英語で十分。後は必要が発達を促す。でしょ!?」

「ここは日本。日本語ができない、学ばない私に責がある。時間的、体力的に厳しい。でもこれは言い訳」(この人はインター校の人望篤い女性校長で、後にアメリカに帰国し、大学院に進学。
私は、一時期、年功序列で教頭職に就き、2週間に1度の両校の管理職会議に出席。常に両校の日英(米)バイリンガルの専門秘書(二人とも日本人女性)が通訳として同席していたが、私が私の英語力を詫びた時の言葉。

 
○契約社会の厳しさ。 教員たちは9月から翌年6月までの契約が基本で、終身雇用制ではない。
あくまでも個人の力量が判断され、且つどのような教員派遣組織から着任したかは、彼ら彼女らの矜持に関わる。
協働校のインター校はIBプログラム採用校でもあり、アメリカに本部を置く信頼の高い組織から派遣されている。 だからこそ教員の評価監察は非常に厳しく、2,3年に一度、学校現場教員からの本部への報告に基づいて、権限を持った人間が来日し、意見を聴取し、面接が行われる。これは、管理職、一般教員区別なく行われ、私の在任中二人の校長が契約解除となり、二人は次の職場探しに奔走していた。
とは言え、日本の終身雇用制を善しとする人はほとんどなかった。
それは、帰国子女なる英語がないことと通ずる。世界を幾つも観て最後母国に還ることが自然という風土が為せることだろう。

ここ何年か、日本国内の一部でIBプログラム採用が、期待をもって語られている。声高に言う人の中に見受けられる西洋偏愛性のことは今触れないが、現在日本の教員意識と小学校(場合によっては幼稚園)から高校までの敬意をもった相互信頼関係の変革なくして採用は至難ではないかと思う。 人あっての理念であり、その実現である。
そもそも小学校入試段階から塾の力なくして入学なしの日本でできようがないと思う。もっとも、既にIB対応の塾が、国内外にできているが。

〔生徒との出会い〕
日米二重国籍生徒と10年余りのヨーロッパ三カ国生活の帰国生徒(共に男子生徒)との出会い。

○日米二重国籍生徒
父がアメリカ人(黒人)で母が日本人。ニューヨーク生まれ。外見は父親。その父親が音楽家(ギタリスト)で、その資質を受け継ぎポップ系のダンス等に関心を抱く。幼少時代の冷やかし、差別的言葉等つらい体験を経て、中学校から入学。少し落ち着く。(このような生徒の親が、日本で子どもが安心して行ける日本の学校はここぐらいしかない、と異口同音に言うのをしばしば聞いた。)
私と彼との出会いは高校生の時。3年次、某私立大学主催の「小論文コンテスト」があり応募を薦め、見事入選。
その表彰式で、某テレビ局が取材に来て、女子アナウンサーが彼にインタビューした時の様子。

――「ニューヨーク生まれですか。カッコイイ!!英語もペラペラ?」とたたみ掛け、彼は 表情を変えることなく、ただ黙って頷くのみ――    このインタビュー、その女子アナウンサーだけのことではないと思う。テレビでの同系の軽薄さは、今も枚挙がないのではないか。しかし、これを軽薄と取るのは、若者の感性についていけない偏屈な大人と言うことなのかもしれない。
ニューヨークで映画修業をした日本人の若い映画作家が言っていた。“まずい状況”に陥っている若い日本人も多い、と。
このことは、海外帰国子女教育に携わった者は、ニューヨークまたアメリカだけでなく、いろいろな地で、親も含め様々な問題を起こし、抱えている日本人があることは周知だと思う。

○ヨーロッパ(スエーデン・ドイツ・イギリス)に10年在留した帰国生徒
彼との出会いは高校2年次。 温厚な表情とは裏腹に批判的洞察力が鋭く、独りで行動することを尊ぶ。海外で日本向け学習に消極的だったこともあり、大学入試では苦労する。 幾つかの私立大学の説明会に積極的に行き、某私学の志に感銘し、帰国生徒枠で受験し入学。
しかし、日々の講義を通して知る、一部教師・学生の志と現実の乖離を体感し失望する。 何とか卒業するも就職はままならず、その過程で精神療法的なことに関心を寄せ、修練を積み、正業とするまでになるが、家庭的にも困難な問題を抱え、生活安定までには行かず、強い批判精神と自己信頼で克服を図ろうとしつつ、現在31歳になる。
彼が在籍中、保護者会と教員との集まりで、彼の母親は強い口調で訴えた。
「私たち大人(親)は良いんです。逃げられる場所があるのですから。子どもたちにはないんです。」
この言葉は、今も私の中で強く響いている。

旧知の教育研究者との会話で、統計を取ったわけではないので単に印象論に過ぎないが、帰国生徒の 心の不安定は、女子より男子の方が多い旨言ったところ、関心を示された。
進学の不安と在籍校の現状、家庭環境、また海外在留体験の相違等、幾つもの要素を吟味しなくては ならないが、ここ数年、母性と父性に関心を寄せる私としては、その研究者の関心視線と重ねて確認できないか、と思ったりする。 その研究者は『異文化教育学会』に所属している。

海外帰国子女教育は日本を映し出す縮図である。そして国内の学校世界は、国内の政治・社会を見事なまでに映し出す。 否、学校社会が、政治・社会を創り出しているのかもしれないが。

体験を幾つか書いた。 そして私の「国際」とは、結局簡単なことに落ち着いてしまう。「際」である。 際に生きることは難しい。或る際と或る際に生きる厳しさ。先の学会の間(はざま)に視点を持つ視座。
イギリスとは違った自然、風土にある島国日本の歴史。意図的に他国との共生を生きようとするならばまだしも、自身の意思とは関係なく生きざるを得ない場合。それも幼少時に。
以前、シンガポールのガイドが言っていた言葉が思い出される。「日本人は羨ましい。日本語だけで生きようとすればそれができる。私たちはマレー語と英語と中国語ができなければ生きて行けない。」

自国と他国での体験、人々との出会いから自身の源泉[最近の用語で言えばアイデンティティ?]を探し求めながら、自己を生き、活きる生。求められる意志強固な強い精神力。それに向かう人が「国際人」。
このことは、国際との大きなことではなく、日々の家庭、学校、職場、地域に在っても同じだと思う。 民族、人種、文化等、何の偏見もない自然な対面があってこその異言語、異文化への理解であろう。志が高ければ高いほど必要な高い研鑽。
だから私はそのような老若男女に接する度に畏敬する。そして私の知る限り、そのような人は国際人であることを誇示しない。そもそも自身を国際人とは思っていない。古来、東西そうであろう。

2015年9月4日

老いの繰り言? 義憤? 或いは 結晶性知能[crystallized intelligence]を自戒に

井嶋 悠

9月1日は「防災の日」、とのことを私70歳・妻68歳「へー、そうなんだ」と顔を見合わせて3日経つ。

「災」、例によって白川静著『常用字解』で字義を確認する。
もちろん、私の或る魂胆があってのことで、[…巛は水災、洪水の災難(わざわい)をいい、それに火を加えて火災をいう。のちに災は水災・火災だけでなく、すべての「わざわい」をいう。]とある。
期待に当たらずとも遠からずながら、「すべての」との表現に救い?を得る。

自然災害突き詰めて見れば人災、とさえ思うほどの明治維新以降の近代化、人間の前に天は、自然は跪く(ひざまず)との人間絶対志向の世、日本、地球に過ごす老一人の牽強付会……。
私は、自身を、物心ついて以来1970年前後の「全共闘」時代も含め非政治的であることを善(よ)しとし快として来たが、ここに到って「反」政治的な自身に開眼?しつつある。
もちろん、「老いの繰り言」との苦笑また時には冷笑は重々承知しているが、私の中では悲憤慷慨、義憤にも似たものが沸々としている。
こう決定的に思うに到ったのは、先日の総裁・首相無投票再選の報に接した時である。

人間営為による終末的様相をこれほどまでに突きつけられれば、この憤りを人の人たる哀しみに溢れた自然な発露と誰が否めようとさえ、思っている。
これは、教師経験からの言葉で言えば「絶対評価」としてであって「相対評価」ではない。
1993年以降、日本を源流に、韓国の、中国の、台湾の、日本語を学ぶ人、教える人を核にして、『日韓・アジア教育文化センター』なる活動を、時と共に必ず生ずるそれぞれの言い分あっての離合集散の人間関係を経ながらも、何人かの熱意の賜物、今も何とか続けている。
その過程で、「母国愛から母国批判はするが、他国の賞讃はすれど批判はしない」との信を自得している。

あまりに酷(ひど)過ぎて、馬鹿馬鹿し過ぎて、哀し過ぎる。
それに若い人たちが、無気味なほどにおとなし過ぎる。なんでそこまでして大人に、追従し、挙句の果てに政治家にやりたい放題させるのか。仮に生きるための面従腹背としても、過ぎたるは及ばざるではないのか。

形容語はそれを使う人の価値観の投影。だから現政府の施策、その哲学を支持する人々40%の真逆に私はある。
もっとも、そういう人たちからすれば、「政治とは非情冷酷なもの、おまえがごとき文学部出の芸術好きなボンボンのおセンチになど付き合ってられない」と言うことなのだろうけれども、私は私。
無惨を実感する事象を、多くは既に投稿しているので、重複承知で敢えて列挙する。

永 六輔氏の次の言葉を我が身に引き寄せて。

――「若いんだからしかたがないって、怒るのをやめちゃっちゃ、何のための年寄りだかわからないよ。怒ってなきゃダメだよ、年寄りは」

(その職人の言葉への永氏の一言。
「最近、年寄りがほんとに怒らなくなりました。もうあきらめちゃったんでしょうかね。」)――

[『職人』岩波書店・1996年刊より]

ところで、この書で永氏は「職人」と「芸人」を並列して書いている。
大して話術力もなく、白々しい作為的表情で、ただただ騒々(わわ)しくはしゃいでいるだけの芸人が、都心の高級マンションで生活し、そしてそれを認めている観客、その双方に、終末的怖ろしさを直感している私としては、永氏の自然な良識を見る。さすがだ。

 

○現首相は、己が名前を冠した「アベノミックス」や「三本の矢」を「津々浦々に」と意気軒昂、得々とまくし立てていたが、地方は、多くの国民は実感していると思っているのだろうか。

――実感している人は、少なくとも私の周辺には誰一人いない。そもそも自身の名を冠する傲慢。
この構想をお膳立てし、支えた学者たち(曲学阿世)は、今、何をしているのだろうか。多くは大学教員だが、意気揚々と学生に持論と功績を講義しているのだろう。
少し前のことだが、私の好きな落語家三遊亭小遊三さんが、寄席落語の枕で、「この節、寄席に来て下さる方はお金持ち」と話し掛け場内微妙な空気が流れた時、師匠の戸惑った表情が忘れられない。と同時にますます好き(ファン)になった。――

○女性の社会参画の数値目標提示要求に見る相も変らぬ男社会観。

――量より質。女性も男性も自問自答、謙虚にあるべきではないか。私の無理な!?人生からの自省。
ネオナチズムの日本人リーダーとツーショットに及んだ二人の女性の、政治権力を持つ党・内閣の要職者の、本人を含めた事後説明とうやむやに見る薄気味悪さ。
それとも現内閣及び与党は、ネオナチズムを公認しているということなのだろうか。
その延長上に、アメリカ絶対正義の安保法制があるのだろう。――

○先進国中第1位を10年以上続ける自殺王国日本。「子どもの貧困」が6人に1人。沖縄等米軍や発展途上国世界への予算編成、資金援助(時に無償供与)での億単位の支出。その契約のための首相直々の1回平均数千万円使っての歴代第1位の外遊数。にもかかわらず財源不足を社会福祉に重ね増税等の国民負担の強要。更には国民一人一人の金融資産を含めた管理統制の強化。

――この感覚って、国民をコケにした虚飾と傲慢の最低の品性、精神的貧困ではないのか。そのような人たちが国を動かす危うさ、空怖ろしさ――

○塾あっての小中高大進学が当然、必然そしてそのための教育費の高騰。西洋社会の学校教育への未だに続く偏愛。そして大学進学率が50%を越え(2人に1人が大学生)、大学格差は以前にも増して確定的。それぞれの関門(入試)の個性重視を謳う方法でさえ画一化。学力テストと入試。不登校。生徒間、生徒教師間、はたまた教師間のいじめ。自殺。

――予算補助、カウンセラー等の加配で事足れり、では収拾つかない現状。学校教育・社会からも「国の在り方」が問われている。にもか
かわらず、自己体験ゆえの自省と自己嫌悪から明確な、今も聖職世界を矜持しての学校社会=教師の閉鎖性、保守性、権威性、独善性。
子どもを実験台にした、机上遊び(官僚性)改革。子どもは大人の自慰的駒ではない。
フランスに起源を持つ「国際バカロレア」教育を、高校での上級日本語指導を直接に、また通信で経験した者として、例えば、日本の「横断的総合的」教育の頓挫とその原因究明もなく、実践も研究も、また運営も未経験で夢と理想を語る人がいるが、軽薄で劣等感の日本人を思わずにはおれない。(ダジャレを一つ。語るは騙る?)
有名学校(主に中高校大学)に入学したその一事だけで、自己研鑽意識もなく卒業し、その学校名を笠にした一部(?)の独善と自信、とそれがまかり通る人生、社会への甘え。
海外在留子女保護者の、国内インターナショナルスクールの日本人保護者の、一部(?)の傲慢。――

○2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けての途上でのほころび。世界陸上等での、謙虚さを完全に外に遣った余りの井の中蛙的礼
賛と自己満足的応援。

――ここにも露わになっている言葉の弄び。責任の所在をうやむやにする説明と責任回避。結果が出るまでの独善と傲慢と、結果が出てからの評論と予算請求と選手育成と言う名の統制管理。――
やはり、繰り言、愚痴でしかないのだろうか。義憤と言うにはおこがましいのだろうか。

 

養老 孟司さんと玄侑 宗久さんの、現代日本・日本人を斬る的な対談『脳と魂』(筑摩書房・2005年刊)の中で、養老さんは、結晶性知能[crystallized intelligence]と老人の明智について触れている。
クリスタルのようなインテリジェンス。何と美しい響きと内容の世界だろう。

[結晶性知能について、書では次のような注が書かれている。

加齢によって発達する知能。計算力は暗記力など、ほとんどの知能能力は20歳ころをピークに衰える。これを流動性知能というが、それに対して、一般的知識や経験を総合した判断力、理解力など、状況に対処する能力は高齢になるほど発達するとされる。]

ただ、老人の言葉=結晶的知能ではない。当たり前のことだが。世には老人を御旗、楯にした傍若無人を知っているし、それを他山の石としてのことである。

この注を押し広げて考えれば、高齢になる前に様々な理由で死を迎えた人々も、その個の尊い歴史から時間の長短とは関係なく結晶性知能があるはずで、その感知は受け手の感性と想像力の問題ではないかと思う。

元教師として、教師は「教える・育てる」は言うが、「教えられる・育てられる」を言う人は少ない、とこれも自省を込めて思う。
教師は、それぞれの校風、方針等で営まれている学校の、眼前の多様な生徒によって創られる。
抽象的語法での、学校と教師と生徒で語られることではない。
「25人学級3クラス1学年」でも不平不満をこぼす教師は多い。それは、多忙な教師時間の中で、具体的個別的に教育に取り組もうとしているからなのか、それとも教師の傲慢からなのか。

 
私には一切の気配りや分別なく、心静かに、心委ね、話せる老若男女が、既に天上に在る人も多いが、幸いにも今も何人かいる。
その中の或る方(今年傘寿を迎えられた私の今も良き理解者で、現在も教育世界で要職にある女性)と、わずかな時間であったが、古稀を迎えた今夏、再会することができた。深い喜びを心に刻んでいる。

2015年8月13日

暴力  思案 ~敗戦から70年古稀・同年生まれの、娘を亡くした一人から~

井嶋 悠

初めに言い訳(開き直り?)を。
暴力とか、性といったテーマは、人間の根源、本質に係ることで、軽々に物言うことではない。
物言うからには古今東西先人の言葉を渉猟して言え、と読書家にして“教養人”は言うであろう。
しかし、天上天下唯我独尊、70年生き、33年間中高校教員(国語科)を務め、娘の死で、人・親・教師についてものの見事に自省を促された私。
天の心配りか、「自身の言葉」が、わずかな水量とは言え間欠泉そのままに湧き出始めた。ほどなく枯渇するであろうが、それでも今は、苦も併せての快を直感している。
教師生活後半で、生徒に対してやっと「生(活)きた言葉」について、彼ら彼女らの表現から具体的に言えるようになった(このことに不遜、独善との批判は当然あろうが、この言葉の私見について、ここではこれ以上触れない)、そのことと同じことを、今、自身に言っている。
ただ、表現(雑感)でのささやかな引用は、老いての恥じ隠し、無知の知など未来永劫ほど遠く、小人の虚栄そのままで、引用範囲の狭小さは如何ともし難い。

1945年(昭和20年)8月15日。敗戦をもっての終戦の日。
私の生年は、1945年8月23日。生地は、長崎市郊外。
教師稼業のいろいろが咀嚼されて来た後半期、最初のクラスで、自己紹介と称してしていたこと。
黒板に、生年月日と生地を書き、何でもいいから気づいたことを話してもらう試み。
「広島被爆から17日後、長崎被爆から14日後、敗戦から8日後、それも長崎市郊外」との、かすかに期待している発言は皆無だった。
多くあったのは、「けっこう年齢(とし)とってんだ(くってんだ)」。
(私は今もいささかそうだが、年齢不相応に若く見られることが多く、この年齢ともなると有り難さ、ご利益(りやく)はあまりない。)

戦争は、それぞれが絶対正義を掲げての最大の暴力であることは、古今東西言われ続けて来ていることである。しかし、暴力を肯定(或いは積極的に肯定)する人は、稀である。
私のような人間からすると、これが人間であるように思える。
愛すべきか、哀しむべきか、恐るべきか……。
そう言う私は、「暴力」を言下に否定する論理もなく、だからと言って肯定するわけでもなく、ことある毎に“私の暴力”について頭をもたげ、しかし今もって明快にいずれとも言えない。
マスコミ等で、「原理主義(者)」「過激派」を悪の権化として一切の疑問もなく暴力集団と糾弾する表現に出会うと、そこに或る作為のようなものを思ってしまう人間である。

「正しい目的のために暴力的手段を用いることを自明のこととみなす」考え方を、「自然法」というそうだが、私の感覚はそれに近いかとは思う。しかし広島・長崎への「原爆」投下はアメリカが言う正義で、これも「自然法」であるとするならば、私は自然法信奉者ではないと思う。

こんな私の、最後の勤務校での体験事例を一つ挙げる。当時、年功序列?で教頭だった。
私はこの事例から、教育の、教師の在りようの一端を見ている。もっとも、当時の校長の姿勢・言葉の方が、一般論として正統であろうが。

授業を終えて部屋に戻る途次に遭遇した、喧嘩中の血だらけの二人の男子高校生。両者を分けて「言いたいことがあるか」との私の問いに、両者ほぼ同時に「あるっ!」。そこで、校長室での両者の言い分聴取。要は常日頃の不仲の会話が発展しての、一方のくどい口(攻)撃に、相手側の堪忍袋の緒が切れて相手の顔面を殴打したのが始まりとのこと。
その後、校長の指示で臨時の学年集会を開くことになり、先ず校長(私より少し若年)からの暴力非難とそのことの哀しみの講話。
そして私から。要点は「人間には限界がある。それを越えた時、手を出してしまうことがある。しかしそこで襲い来るものは後悔と反省の哀しみだけである。」これは、私が観念的概念的になることを意図的に避けたい願いが背後にあってのことである。
その日の帰宅後夜、初めに殴られた方の父親から、教頭たるものが暴力を肯定するとは何事ぞ、との旨の問答無用の非難電話が1時間ほどある。
当然?校長にも私の非難が行き、翌日、やはり校長の指示で、私の謝罪のための新たな学年集会(10分ほど)が持たれ、私は「誤解を生じさせ申し訳ない」と謝罪。
生徒たちが教室に戻る時、私の背後から数人が「先生が昨日言われたことは、私たちよく理解していましたよ。でも何で今日また学年集会?」と声を掛けて来た。私は「誤解を生じさせた」との繰り返し。
初めに殴打した生徒は、その日、登校していなかったが、数日の自宅謹慎後、自身の意志で転校した。

極端な飛躍を承知で、戦争も同じではないか。
慈悲の宗教仏教も、愛の宗教キリスト教も、暴力を拒否し、否定するが、その宗教も人が編み出し、創り出した世界で、キリスト教の数多の殺戮の歴史……。

新約聖書『マタイによる福音書』第5章38節以降では、次のように言われている。

―あなたがたも聞いてのとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。―と。

理念と生身、理想と現実。歴史を思い返せば一層、非常に意味深長な言葉だと思う。

原爆開発(「マンハッタン計画」)に直接従事してはいないが、アインシュタインの日本での言行に見る姿は、大きな光明であり、恒久の平和への可能性を、当時世界の多くの人々が直覚したはずだ。
しかし、現在、9か国(アメリカ・ロシア・イギリス・フランス・中国・インド・パキスタン・北朝鮮・イスラエル)が核保有国で「核クラブ」と称され、それぞれの正義からその会員が増える可能性もあるという、その現実が提示することは何なのか。
言葉を繰り返すことの虚しさに“限界”を痛覚し始めているひたすら平和を希う私たち、唯一の被爆国日本は、どうしようとしているのだろうか。
アメリカの核の傘を自明としての「集団的自衛権」行使こそ、政府の言う「積極的平和構築・貢献」ということなのだろうか。

今の私の至福の時の一つは、愛犬と共有の寝床(ベッド)での独り(+一匹)DVD鑑賞で、先日、中国映画『罪の手ざわり』(2013年・監督:ジャン・ジャクー、原題『天注定』・英語題『A Touch of Sin』)を観た。

中国映画には、懸命に生きる市井の人々、地方の人々の、それも女性に焦点を合わせた「愛」と「哀」を主題にした私の好きな作品が多い。(例えば、同じくジャン・ジャクー監督の『長江哀歌』や、『三姉妹~雲南の子~』『小さな中国のお針子』など)
『罪の手ざわり』もその一つで、同時に人間の他への、自への暴力を考えさせる、実際にあった事件を下敷きに創られたオムニバス映画である。
急速な近代化が進む中国社会にあって、その裂け目とも言える狭間で、感受し、もがき苦しみ、或る時思いを爆発させる市井の、別の表現で言えば底辺に生きる4人の男女の、それぞれの物語である。
近代化の正負については、私たちは日本に在って既に身をもって知らされ、知っている。
私は、「同情ほど愛情より遠いものはない」との、大学卒業論文で採り上げた、昭和10年代の癩病作家・北條民雄の叫びに痛撃されたにもかかわらず、今もってそれを己が言葉に為し得ていない貧相な人間であるが、この映画の4人の心と行動に共感し、思考を再び促された一人である。

ジャン・ジャクー氏のインタビューでの言葉を引用する。

―(中国国内での公開機会が与えられないことについて)もう10年以上映画を作り続けているので、それについてはとても穏やかになりました(笑)。今作(『罪の手ざわり』)に関しては、これまでのものを打ち破って作ったテーマで、暴力そのものが中国では容認されない題材です。外国の皆さんは、まず中国当局の圧力を考えると思いますが、保守的なのは社会の問題。観客もまたしかりなのです。受け入れられるかどうかというのは、国だけの問題ではありません。ですから、そういう中で僕はこの題材、方法を選んだので、忍耐強くいたいと思っています。―

ところで、私の限られた鑑賞体験での管見に過ぎないが、韓国映画にも職業(プロ)意識溢れる巧みさ(例えば『猟奇的な彼女』と『シュリ』)に魅了される中にあって、中国映画にはヨーロッパ映画の、韓国映画にはアメリカ映画の香りを感じたりしている。
そして残念ながら、最近、沁(し)み入る日本映画との出会いがない。

皇帝専制史、革命史、一党独裁史……、と日本とは、その国土の巨大さ、多民族等々と併せて、同じ東アジアと言っても日本とはずいぶん感覚は違うが、日本文化の源流に中国文化が影響を与えていることは、誰しも認めることである。もちろん、中国文化の複製でしかない日本文化、といった上下視線からの中国文化・日本文化のもの言いではなく、である。
その中国の、日本での印象は、現在すこぶる良くない。
多くの報道視点には、下品で、良識の無い、金の亡者国家中国、との政治的操作が働いていて、私たち“一般人”はそれを導く政治家、学者等知識人、そしてマスコミ人の術中、思惑に嵌り込んでいるようにさえ思ったりする。
韓国(北朝鮮については、ここで並列することは避ける)報道と併せて、「共生」は欧米圏とのそれで、第2の「脱亜入欧・米」と言うことなのだろうか。

一方で、中国内陸部を中心とした農村部での女性の自殺の多さ(中国政府から公表されていないので、国際機関等からの報告から)に見る、貧困、男女差別の深刻さはほとんど知らされない。
この10有余年にわたり先進国中自殺者第1位である日本が、日本を考えるためにも、もっと問題を共有して然るべきではないかと思うのだが、これも国際社会での危機意識の乏しい能天気日本人ということなのだろうか。

「暴」という漢字をぼんやり眺めていると、どろどろした情念の激しい力のようなものが浮かんで来る。
「暴力」。昼は白日下の、夜は漆黒下の、怖れとおののき。
それに「火」を偏に加えると「爆発」。「水」を加えると「瀑布」。やはり「水」は「上善」……。

因みに、白川静著『常用字解』には、次のように書かれている。

―会意。日と獣の死骸の形とを組み合わせた形。獣の死骸が太陽にさらされている形で、「さらす」の意味となり、さらけだすことから「あばく」の意味となる。(中略)。暴が暴虐、乱暴のように、「あらい」の意味に用いられるようになって、「さらす」の意味の字としてさらに日を加えた曝が使われるようになった。―

本人の意識、自覚の有無は多種多様、いずれにせよ、人は人生の多くで暴力を働いている、と私は思うし、私自身その一人である。だから、70の手習いよろしく自己表現を試み、時に仏教でいう人間の「業(ごう)」の無気味な深さに思い及んだりしている。
このことは、保守性と閉鎖性と権威性が複雑に重なった人間集団の学校[教育]世界での、教師と生徒間で、他世界との比較がないので多いとは言い切れないが、体験から少なくとも少ないとは思えない。
そのあからさまな醜態が体罰だが、「言葉の暴力」は、教師の対生徒、生徒の対教師で、確実にある。
要は、教師の生徒イジメであり、生徒の教師イジメである。
ただ、前者は我がままで、後者は反抗、との決定的違いがあるが。
教師の、教師内で発せられる生徒への、自信に満ちた罵詈雑言など日常茶飯事で、その酷評はいつしかその生徒の耳に届く。ただ、生徒も、保護者も黙って、耐え聞き流しているだけである。学校は人生の通過点の一コマ。楽しいこともあれば、辛いこともある。人生の辛さと較べれば、と。

このブログへの投稿契機の重要素の一つは、23歳で早逝した娘への供養、無念を晴らすことで、その死への原初は、娘・中学2年次でのクラス担任の娘への無視、女子生徒を取り込んでの排斥と言う、身体と言葉の暴力である。その真偽は、卒業直後、3年次の担任からの娘への呼び出しと謝罪で明らかである。
その教師の言葉。「知らなかった。すまなかった。」
この教師の良心をうれしく思う一方で、これが学校組織(教師集団)の現実、限界であるとも思う。

娘が、死の少し前、母(妻)に、父親も含め絶対に他言しないことを約束して初めて打ち明けた旨、妻(母)から聞いた。
私の激しい憤り、悲哀は、母(妻)の淡々さには到底かなわないことを全霊で知り、私は母(妻)の心を推し量るだけである。
娘と母の思いを尊び、事実確認調査とか訴訟といった直接行動は取っていない。ただ、ひたすら理不尽の怒りを伏流水にして、自身を、人々を、社会の過去と現在を、そして願いを書いている。
投稿内容に共感共振する教育関係者もいれば、異論無視する教育関係者もいる。もちろん!後者が多数である。そして、後者の教師たちを、私は徹底的に軽侮する。

私は、親として、元教師として、厳しく自省し、共感共振くださる方々(方でいい)の眼差しを力に、もう少し寄稿を続け、教師が、大人が、率先して謙虚に自問自答せずして、学校は、教育は、その背後にある社会は変わりようがない、との娘と自省から得た確信を伝えたいと願っている。
私の気質、生き様を感知、熟知し、長短すべてを受け容れていた娘は、父親への叱責を横に置き、この投稿を苦笑しながら容認してくれていることと、私は時折遠くにぼんやりと視線を送っていた生前の娘を思い浮かべ、信じている。

それにしても、娘が、「魔」の中学体験後、更に高校1年次で出会った教師不信(先ず教師不信で、そののちのこととしての学校不信)、元教師としてひしひしと得心できるだけに、あまりにも酷(むご)いと思う。これが特殊でなく、稀少でもないことを聞き及んでいる現実。
なぜこのようなことが起こるのか、局所的に、同時に大局的に考えて然るべきではないのか。日本が、文明国で、先進国で、一等国の、伝統ある国との自尊を持っているならば。

2015年8月3日

2015年:「節目」の八月 ―戦争を知らない、敗戦後第1世代から怒り一寸(いっすん)―

井嶋 悠

七月の不順気候が終わって八月になった。2015年8月。
私が、東北地域と関東地域の境目の地に、“江戸っ子”妻の勇断で移住して10年が経つが、初めて経験する見事なまでの酷暑の日々だ。
“  ”をつけて言うのは、私の知る限りの、その地の風土を醸し出す人物への敬愛表現からである。多くは女性なのだが、理由は分かるようで分からない。そして6歳年上の従姉妹の一人に典型的“京女”を思っていて、やはり敬愛している。

そんな私は、暑中と言うより熱中にあって、高齢の枯淡、閑雅などどこの世界の話?そのままに、いつにも増しての「沸点・短絡」、厭世?感募り、作家・宮尾登美子の代表作、『鬼龍院花子の生涯』の映画化(1982年・監督:五社英雄)で、花子を演じ、急性白血病から27歳で夭折した、かの妖艶にして清華な女優・夏目雅子の、“キレ”セリフを借用すれば、「なめたらいかんぜよ!」の情動の日々。

誰が、誰をなめるのか。一部の?、政治家が、官僚が、学者が、マスコミが、多くの国民を、である。

全共闘世代とは、1965年から1972年までの、全共闘運動・安保闘争とベトナム戦争の時期に大学時代を送った世代とのことで、私が学部から大学院に進学した1969年はその中期で、彼ら彼女らの志しに敬意の衝動を感受したが、ただ眺めていた非政治的気質の「ノンセクト」人間であった。 ただ、なぜか新左翼先鋭派に属する先輩後輩をはじめとして、左右両翼の俊秀との出会いを持った一人である。
もっとも、一方で『枕草子』研究の第1人者からは、研究室出入り禁止を言い渡されもしたが。

今、その無政府的(アナーキーな)心は、「老人優待パス」をもらえる年齢になって揺らぎ始めている。
と言うのは、年金生活者、地方移住との環境変化から都鄙を含めた自他への客観的視野を持ち得たこと、
同業の中高校教師が起因の重要素となっての苦闘の7年後の4年前、23歳で天上に旅立った娘のこと、
それを契機に彼女の鎮魂と供養、また無念を晴らすことをも意図して始めた、中高校学校教育体験からの己が整理と学習への衝動、
『日韓・アジア教育文化センター』の[ブログ]への投稿は、ごく自然に、日本社会に、文化に私を導き、日本の現在に、時にはほとんど絶望感さえ襲いかかる。
かてて加えて、33年間の教師世界(私学)で出会った、権威・権力志向の権化にして実践者が、猛暑が一層そうさせるのか、しきりに脳裏を過ぎり、その実践者の同じ人であることを全く忘れた感性が改めて思い起こされ、そこまで人を愚弄するのか、と切歯扼腕(せっしやくわん)することしばしばである。

2015年になって、巷間では日毎に「70年の節目」との言葉が、走り回っている。
私など、先ずそこにいかにも官僚的、観念的臭いを直覚する。
現首相の、「寄らば大樹の陰」の隷属を拠り所にした独善的好戦的志向と他者軽侮、人の生・命への非情(これについては、かの集団的自衛権に限らず、国会等での表情、態度、言葉遣いから明らかで、人間性との原初への疑問、いわんや国の代表者としての不適格に同意する人はいや増している)からの思考と発言が露わになり、それは現天皇の、父・昭和天皇の意を受け止めた哀しみの顧慮との乖離まで囁かれるに到っている。

「集団的自衛権」と「憲法」の問題に関して、異議を唱え、行動している大学生らのグループ「SEALDs(シールズ)」と、さまざまな分野の研究者でつくる「安全保障関連法案に反対する学者の会」に対して、一部の政治家が、官僚が、陰で罵声発言をしているとの由。やはり、と思う。その人たちの行動に参加できないもどかしさ、後ろめたさと重ねながら。

そんな矢先での、首相側近代議士の妄言騒動。
「東大文Ⅰ」卒業の元エリート官僚って、そのレヴェルなんだの再確認と、親族、教師時代、その後で東大卒を何人か知っているからより思い、そういった人たちが日本の針路を決める漆黒の恐怖。
今、テレビにしばしば登場する東大卒予備校国語教師と対談していた或る“自由人”曰く、「要は、文Ⅰ(法学部)、理Ⅲ(医学部)の話なんでしょっ。」の痛烈さと、それに何も反応できなかった「文Ⅲ(文学部)」卒のその教師。

ひょっとして「節目」表現は、どんどん広がる風化への危機感からの意図的警世表現なのだろうか。

私は、以前から「精神文化としての天皇」と「天皇制」を別にして考えていて、しかし今もって自身の言葉を持ち得ていない一日本人であるが、「節目」表現が警世の愛などとは到底思えない。

本籍地京都の私は、1945年(昭和20年)8月23日、長崎市郊外で出生した。大正6年生まれの父が、海軍軍医として長崎に従軍していたことによる。
その父から、当時の軍医を含めた一部軍上層部の「御国のため」!の陰に隠れての放逸や被爆者治療の実態をしばしば聞かされ、世情とは違う“教科書が教えない歴史”から自己照射することで、人間を考えさせられ、また大江健三郎氏の子息・光さんが、父に導かれて広島の原爆資料館を見学し終えた直後に発した言葉「すべてだめです」に、激しく揺さぶられた一人として。

私が、55年前、高校で(某国立大学付属高校)で学んだ、中国大陸での、韓国朝鮮での、東南アジアでの日本軍の暴虐とそれを示す写真は、その時の先生方は何を目的に指導されたのだろうか。
沖縄の本土防衛「捨て石作戦」とは、一体何だったのか。辺野古問題に際して、私たちは何を思っているのだろうか。
各地への米軍大空襲は、そして広島・長崎の原爆投下は、「勝てば官軍」の戦争倫理、正義なのだろうか。
1941年12月8日、小中高校の国語や社会の教科書にしばしば採り上げられ、それぞれの世界の歴史に名を刻んでいる作家・詩人また思想家・学者の「感嘆」表現について、私たちはそれらをしっかりと受け止め、思考を深める作業をしているだろうか。
東京裁判等で絞首刑を宣告された一部戦犯の、例えば辞世の歌に見るその身勝手、独善について、私たちはどれほど厳しく、自身の事として、とらえているだろうか。
多くは、その事実の知識だけではないのか。やはり「生きた言葉」に思いが及ぶ。

人間が“人間的”!?に生きて在る限り戦争が無くなることはないと言う。
今も地球の各地で戦争が繰り広げられ、それぞれの当事者・国が、また支援者・国が、絶対正義を声高に叫ぶ。戦争という公認大量殺人が、狂気とはならない、それどころか正義とさえ賞讃される不条理が、永遠の正義なのか。
そろそろ世界が揃って「限界」の悲鳴を挙げ、人間の醜悪さから脱出できないのだろうか。
文明の進歩、文化の発達は、途方もない勢いで前に進んでいるように思えるが、一歩内に立ち入った時、気づかされる違和感、後退の自覚はないのだろうか。

現首相やそれを支える官僚、学者(曲学阿世)、マスコミ人は、中国、北朝鮮、ロシア更にはアラブ地域からの日本攻撃の可能性を(暗に?)言い、アメリカへの隷属なくして日本の存立なしを説く。
そのアメリカ軍基地が、日本国内、沖縄を筆頭に、青森、東京、神奈川、山口、長崎にある。
隷属はそれら基地への攻撃誘導、と考えるのは、世界情勢を知らない甘い感傷なのだろうか。

オリンピックのゴタゴタも然り。(そもそも何で日本《東京》招致?は、以前投稿した。)
地球規模での自然保護、自然との共生、そのための人の心掛け、決意が言われているにもかかわらず、金に物言わす下卑、ていたらく、とそれを推進し、影響力を誇示する「何であの人が」とほとんどが思う不可解な人物に見るあまりの時代錯誤。世界への恥発信。
にもかかわらず、日本は、世界のリーダー、を繰り返す厚顔。

幾つかの私学を経験しての行き着いた一つの実感。「伝統は金では買えない。その伝統を活かすも殺すもそこにいる人間。」
日本の伝統とは何で、それが人の、地域の、国の生にどう有効なのか、小中高校学校教育でどれほど大局的、継続的に考えられ、実践されているだろうか。断続的知識の教え込みで終始していないだろうか。
そして教師は、時に子どもも保護者も異口同音に言う。「そんな時間はない」
伝統とは直接結びつかないとは思うが、現在32歳の息子が小学校時代、学校内行事の一環で、野坂昭如氏原作『火垂るの墓』のアニメを3回か4回見せられ、感慨が薄らいだとぼやいていた。

以前、ブログで、私を教師に導いてくださった高校時代の恩師のことを書いた。
その中で紹介した教師赴任にあたっての師の言葉の一つ。「教室では、廊下側に視線を向けて始めよ。終わりころには外窓の方に向いていて、結果、全体を見渡せる。人間は向日性の動物だからな。」
これを、微笑みの好感を持って受け容れてくださった読者があった。
政治家は、官僚は、学者・教師は、生活も、福祉も、教育も、陽の当たる所・人から始めているように、自省を込めて、思えてならない。
そして、アメリカは、欧米はその光源のようにとらえられ、憧憬の限りなき対象となる。

何度も繰り返される、「忙しい」の[忄(心 ]+[亡]の真理と警鐘。
子どもたちは、あまりに忙しい。忙しくない子どもは、取り残される? 山岳・森林60%、居住地40%の、島国日本での、大学の大衆化の目指すところとは裏腹の都鄙による様々な格差。
少青年期だからこその鋭敏で瑞々しい感性、想像力を削ぐ忙しい日々刻々。地域、経済格差。知識の多寡が優秀を決める暗記万能がなおも生き続ける。
大学の序列化の加速への教師、大人の無責任。
「中高大、塾なくしては進学なし」の、地域、家庭の経済格差が、進学実績につながることが当然とする麻痺。

2015年、敗戦後第1期生、戦争を知らない第1世代の、1945年(昭和20年)生まれは、古稀の「節目」を迎える。
出発世代としてもっと声高に怒っても良いのではないか。
そのことに定年、引退などあろうはずがない。

薄氷の張り付いたジョッキで、ギンギンに冷えた生ビールが呑みたい。
(現住地は、豊饒な自然が当たり前にある車社会で、妻の送迎なくしてはこの願いは叶わない。何事も一長一短……。)
居酒屋のカウンターで独り、天候不順の先月七月に眼にし、耳にした二つの光景[ぼろぼろになった翅を閉じ、微動だにせず休んでいたアオスジアゲハ]と「明け方雨中の4時過ぎに10年かけて地上に現われ、ひたすら鳴き続けていたヒグラシ」を思い起こし、
40年ほど前、「打ち震えるほどの感動」に襲われた、村上鬼城の「冬蜂の 死にどころなく 歩きけり」の句を噛みしめながら。
映画のワンシーンの、セリフのない、横姿だけの一人になったつもりで………。

2015年7月24日

初めに心があって…… ―二人の詩人から老いを、日本を観る―

井嶋 悠

私は今、静けさをたたえる“作品”に、これまで以上に心打たれ、浄められ、そこから己をかえりみ、独り、自身に溜息をつく時間が多い。
その後ろ側に2015年の日本社会があって、私の歴史があって、高齢化社会の末席に私はいる。

“作品”のまずは、神の造化「ひと」であり、「自然」であり、そしてそのひとが創った「作物」である。
「作物」を、人々は芸術と言うかもしれないが、要はそのときどきに己が感・理・知性で真善美を直覚した「作物」である。
もう45年ほど前、当時新左翼の先鋭派に属していた高校時代の先輩の言葉が、ふと甦る。

「芸術の芸の字は藝の方が合うなあ」

その先輩は、20代後半に心臓の病で旅立った。

私は、“作物”の一つである詩(和歌、俳句を含め)に魅かれる一人だが、静かな情感の底に秘めた激しさ(激情)を、やさしい(易と優の両意があるが、芸樹にあって優は当然自明だから、ここでは易の方)言葉で紡いだ作物(難解との響きに近い難しい言葉は、私の感性、想像力では遠過ぎる)に出会うと、書いた人(詩人)をあれこれと想像する。
既に追体験した人ならば、再度、再再度……その人の生を振り返り再追想する。
作品(作物)からその人(詩人)の生を知った後、私の性向か、心の焦点はその生にもっぱらとなる。

そんな詩人が何人かいるが、ここではこのブログへの投稿契機・背景から近現代詩人二人を挙げる。
一人は、高村光太郎(1883~1956)
一人は、天野忠。(1909~1993)

二人に共通してある限りなく深い優しさ。葛藤、苦難を経、行雲流水がごとき濾過された優しさ。
私が、ここ2,3年執心している「悲・哀・愛[しみ]」につながる直覚である。

二人について、少し説明を加える。

 

高村 光太郎。

小中高校の国語教科書では必ずと言っていいほど採り上げられる詩人で、彼の人生のすべてでもあった妻(旧姓長沼)智恵子の心の病にひたすら寄り添い、最期をうたった詩『レモン哀歌』を引用する。

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白いあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光つレモンを今日も置かう

この詩の説明を、ここで繰り返す必要はないだろう。
「昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして  あなたの機関はそれなり止まつた」
この一節に込められた、愛の深さ、激しさ、哀しみ。

その高村光太郎、太平洋戦争時、「文学報国会詩部会長」として、戦意高揚、戦争協力の詩を創作したが、戦後、その悔悟から1945年に岩手県花巻で自炊独居生活に入り、7年の時間を過ごした。
その4年後の1956年、永遠の旅に立つ。その時の言葉。

――老人になって死でやっと解放され、これで楽になっていくという感じがする。まったく人間の生涯というものは苦しみの連続だ。――

彼の顔は、ことのほか安らかで、おだやかな美しさをたたえていた、とのこと。

優しさ、慈しみそして哀しみ溢れる彼の生からの魂の発露に、心揺さぶられない人はいないだろう。

以前、何かの本で読んだ、彼と交流のあった或る文学関係者(名前は忘れた)は、花巻の彼の元を訪ね、その田舎生活を目の当たりにし、直ぐに東京に戻るだろうと思った由書いていたが、研究にも創作にも縁のない私ながら、その人のさびしさを思い、そのような人が文学関係者で、彼と交流のあったことが不思議だった。

 

天野 忠。

彼は体質から酒が呑めなかったとのこと。そのことを書いた随想『酒の恨み』の一節。

――談論風発、天国の界隈を逍遥しているらしい風情の、清興悦楽の人士を、はたから健羨の眼で、ときには憎悪の眼で眺めやるしかない。こういう場面での、さらりとした分別を持ってもよい年齢に、とうになっているはずなのだが、情けないことにそれもない。
「酒のどこがいいか」問われたとき、孟嘉という人は「酒中に深味あり」と答えた由。――

彼は、京都のど真ん中の職人の家に生まれ、実に多様な職を転々とし、1932年に第1詩集を、1974年65歳の時『天野忠詩集』を出し、確かな反応を得た。
朴訥淡々と、夫婦愛と親子愛の日々を重ねながら、京都人の気概高く生きた人で、本人の受け止め方は知らないが、“天野忠翁”と親愛と敬意をもって呼ばれた人である。
三つの詩を引用する。

『伴侶』

いい気分で
いつもより一寸長湯をしていたら
ばあさんが覗きに来た。
――何や?
――いいえ、何んにも
まさかわしの裸を見に来たわけでもあるまい…。

アッと思い出した。
二三日前の新聞に一人暮らしの老人が
風呂場で死んでいるのが
五日後に発見されたという記事。
ふん
あれか。

『帰り道』

夕方
公園の橋の上を
五つぐらいの女の子と
二つぐらいの男の子が
ならんで歩いてきた。
すれちがうとき
私に聞こえるように
女の子が呟いた。
――ちっちゃい子を連れて帰るのは
しんどいな
振りかえって私はニッコリした。
むつかしい顔をして
女の子は
私を見返した。
ちっちゃい子の手をひきながら。

『叫び』

草の中に神経質な虫が一匹いた
世界中でいちばんちっぽけな奴で
うまれつき風が恐くてならない
風から逃げるために
彼は汗を流して勤労し
一年かかって穴を掘った

穴の中に楽しく縮かんでいたら
世界中でいちばんやさしい風が
そっと吹いて
穴の上のちっぽけな土を
落してしまった
虫は
世界中でいちばん小さな哀しい叫びをあげて
往生した

寡黙な優しさ。慈しみ。京都のおっとり風土。鷹揚とした時の流れ。愛(いと)しさ。漂う哀しみ。ユーモアの真骨頂。
正に「詩中に深味あり」だ。
(因みに、私の本籍は京都で、菩提寺は烏丸今出川の近くの曹洞宗寺である)

顔(貌)は創られる。高村光太郎と天野忠の老年の顔は一級品だ。

キリスト教文化圏の西洋人は、「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」と言う。
日本人は初めに心があって、神(天)を想い、言霊という清澄な思いを編み出す。(私は偏向な神道信奉者でもなんでもない。)

『古今和歌集』の「仮名序」を、再び思い起こす。

「やまと歌は 人の心を種として よろづの言の葉とぞなれりける ……力をも入れずして天地を動かし 目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ 男女のなかをもやはらげ 猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり」

近代化は合理主義の裏付けなくして成り立たず、理に合うことが論理であり、言葉は論理として、時に神の論理として、知性の象徴となる。
日本は、明治「維新」との言葉が示すように、文明開化のためには脱亜細亜であらんとし、富国強兵、殖産興業に邁進した。邁進し過ぎて?1945年、歴史上初めての敗戦を経験した。しかし。好奇心と勤勉さとそのときどきの世界事情(朝鮮戦争であり、ベトナム戦争等)から、半世紀で「戦後は終わった」と言わしめ、世界一等国になった。

一等国? その前に独立国?

心と頭と身の三位不一致に悩まされる人が増えに増え、これも半世紀近くなる。
世界は、ボーダレスを言い、グローバル化を言う。聞けば聞くほど、我が身を振り返る。柄にも似合わず、そこにつきまとう広と狭のナショナリズムも併せて。
歴史の曲がり角には、己を、地域を、国を振り返る時と場が不可欠なのは古来実証済みのはずだ。
安息所[踊り場]のない螺旋(階段)発展は、人を、自然を破壊する。いわん猪突猛進そのままの直線的上昇志向は、である。

学校教育も然り。
知識の言葉から智恵の言葉への教育が、どれほど次の時代を創るか、と中高校のささやかな国語科教師体験から思う。
奈良時代からの日本が繰り返して来た「国際化」と「国風化」の歴史を顧みれば明らかだ。
そのために必要な、「あれもこれも」を善しとする偏向からの脱却と教師の意識改革。時間を人の手に。
1時間は、人類誕生以来同じ1時間だが、長寿化の現代にあっては、悠然たる1時間なのではないか。
少子化と長寿化と個の尊重を言うならばなおさらのこと。

文明と文化を問う材料がここにもあることを、私は思う。
しかし、このような考え方は、非現代人の、それも高齢者の、去って行く者の、感傷的(センチメンタル)な心に過ぎないのだろうか。
帰国子女教育・外国人子女教育に携わった教師体験と、娘の死に到る経緯からそうは思えないのだが。

高村光太郎の、天野忠の、老いの心映え・心模様は、過去の、文学世界だけでの、しかも私的なこととしてのみ輝いているのだろうか。

いつの時代でも人がある限り繰り返されることかとは思うが、現代の都市文明の醜悪さの一側面を象徴しているようにも思える、権力と権威と独善に陶酔し、自身の意に沿わない人物はサディスティックに排撃する、先の二人とは真逆の、しかし本人は詩人を自称し(何冊か詩集を出版し、サイン会もどきもしていた)、ヒューマニストにして博愛主義者を公言し、一部での絶対的尊敬を当然かのように振る舞い、しかし一方で、日々恐れ戦(おのの)き、事ある毎におどおどしていた心貧しい人・エゴイスト(職業は教育者)とも出会っているがゆえに、一層、言葉の前の心の在りように考えが及ぶ。

蛇足を重ねれば、この人物の詩を読もうとは全く思わない。幾つもの生の層を潜り抜け、研ぎ澄まされた言葉の集積である詩への冒涜を思うから。
もちろん他山の石のこととして。(もっとも、私は詩は書かないが。正しくは書けない?)

 

2015年7月17日

60でもなく、80でもなく、70の手習い ―いつ、どこから訪れるか分からない“境”―

井嶋 悠

 

怠け者の私が、人生数えるほどしかない自学自習から、日々を重ねる力を得ている。
来月古稀を迎える身としてはうれしいのだが、どこか複雑な思いも湧く、この2年余りである。
かの「十五にして学に志し」に始まる孔子の言葉(人生道)は七十歳で結ばれる。曰く、
「心の欲する所に従いて、矩(のり)〈きまり〉を踰(こ)えず」と。10年前の六十歳は「耳順う(耳順)」。
天下自由人の境地と言えようか。
まだまだ観念の中で蠢(うごめ)いている私に過ぎないが。

向学の源泉は、娘の7年間の苦闘の末の、2012年、23歳での死であることは、知る人ぞ知る、である。
その端緒が、33年間の私の生業と同じ中高校教師であるから、元々「先生」なる者に信を置かない妻は以来、ことのほか「学校」「教師」の2語を忌み言葉とし、口に出さない。

私と妻は恋愛結婚である。能天気と親不孝そのままに、28歳にして正職に、しかも何と教師に、就いて5年後である。それまでに妻を知る人々は驚いたそうだ。然もありなん。
量数で言えば、私を良き教師と評価する人は少数である。
だから、私がただただ事実に基づいて、思うままにこの【ブログ】に書く学校のこと、教師のことは、少数の読者での多数は非難、無視である。もっともなことである。
有り難くも読んで下さる多くの方は、私の公私を知る旧知の教育関係者なのだが、中には「こんな長いもの誰も読まない」と内容以前の発言もある。
しかし、読者は量より質よ、と居直っている。賛同する人は、私が知る限り多くは教師ではない。
「教師らしくない教師」との評語は教え子からも受けた。それは、私にとって心地よい響きであり、励みでもあった。娘は生前そんな私を聴き、見、優しく遠くを見るかのように微笑んでいた。
ただ、それも59歳が限界だった。

余哀と言う言葉に心揺さぶられるにもかかわらず、誤解と矛盾を承知で、私は娘に感謝している。
娘の怪訝な、しかしいつもよく分かってくれていたあの貌(かお)を思い浮かべながら。

作家・坂口安吾(1906~1955)が言っている。

――悲しみ、苦しみは人生の花だ。悲しみ苦しみを逆に花咲かせ、たのしむことの発見、これをあるいは近代の発見と称してもよろしいかもしれぬ。――[『悪妻論』(1947年)]

さすが一時代を創る人は違う。孔子が言う「不惑」の歳での言葉である。

坂口安吾は、この8年後、49歳で、天上人となる。彼は“無頼派”と言われる。
私は、青年時代、この“無頼派”に憧憬を持った。遅くしての正職は、それがあるやもしれぬ。
妻は、アル中で死んだ高校時代の、私を教師に導いた恩師の影響だと言っている。憧れは背景があってのことだから、当たらずとも遠からずかもしれぬ。
しかし、単なる憧れで終わって、私は今も生き、恩師は私が結婚する少し前に孤独の中で旅立った。

自学自習と言葉紡ぎ始めたその途次に、次のような言葉にも出会った。

「境は線にしかすぎないが重い扉が立てられ、いつも閉ざされ、ただ一つだけ通れる道がある。それは橋であったり、峠であったりする。村と村との境を追分ともいうが、向こうの世界に行くためにはここを通らなければならない。そこを境というが、この境を越すためには危険がともなう。だからここには神が祀ってある。それが境の神である。」

「人間は人生をいくつかに区切って境を設けるが、時間の流れにもまた境がある。これを刻とか節という名で呼んでいる。そうして時の境を神秘化しようとする。」

[上記はいずれも『日本人物語 5 秘められた世界』(1962年)の編者・関敬吾(1899~1990)「はじめに―生活文化の秘密性―から」]

私の“境”への、娘の、娘による天からの啓示なのだろうか……。

余計なことだが、私が在職中の20年ほど関わり得た「(海外)帰国子女教育」について、更には「外国人子女教育」について、この「境」の視点から、出会った多くの生徒を思い起こしていずれまとめたいと思っている。

善悪ではなく、好悪の問題に過ぎないのだが(教師というのは、得てして好悪と善悪をほぼイーコールで話すことが多いと思う。もっとも、教師に限らないかもしれないが)、私自身不可解にして、時に苛立ち、時に有頂天にさえなる、69年間の人生と33年間の教師人生があったから、この2年ほどの時間に、或る新鮮さを直感するのかもしれない。
ひねり出す言葉は、稚拙にして、知識量の圧倒的少なさは致し方ないが、“私の言葉”との矜持はある。矜持と言う堅苦しい言葉を使ったのは、不遜・傲慢に陥らぬよう心掛けているからである。
しかしただの一小人(しょうじん)で、表現未熟者を自覚しているから、数多の言行不一致があるのは明らかである。

教師の世界は、教職免許取得者の世界である。

《ちょっと余談》
大学教師はそれとは違うはずだが、資格基準が甚だしい。「ドクター浪人」なる言葉が、高学歴貧困者の問題が生じて、20年以上なるのではないか。
以前、或る私立大学の知り合い教員から聞いた話。
准教授(当時は助教授)1名の公募に、そうそうたる高学歴者100人ほどが応募して来たとのこと。
今はどうなのだろう。大学の大衆化の一側面(その正負については今措くが、負の側面の方が強いように思う一人ではある)、大学院進学者の増加に伴い、学位取得者も多くなり、一層就職厳しいとも聞く。

因みに、ここ何年か「大学院教授」との肩書きをよく目にするが、あれも大衆化の中での教授側からの「差別化」の一つなのだろうか。学部教養課程教授と専門課程教授との差別化と同じ構造での。

閑話休題。

教員資格取得のためには、あれこれと必修講座を履修しなければならない。その時、経験から言えば、教師になって最も活きた力と思考、思案の土壌となるのは「教育実習」である。
私の実習校は、大阪の下町の公立中学校で、国語授業以前の問題にどう向き合い、取り組むかが求められる難しい学校だったからより強く思うのかもしれない。1968年、23歳の時である。
家庭の貧困と親の不在に向き合っている子どもたち、寂しがり屋の子どもたち、騒々しい教室で沈思黙考する数少ない子どもたち、休み時間にはじき豆そのままに生き返る子どもたち………。
どれほど私の心をとらえたことだろう。
幾つもの「武勇伝」を残した。
或る時、授業が始まっているにもかかわらず教室を走り回っている男子生徒の襟首を捕まえて尻を蹴とばしたことがあった。
クラス担任で、国語科の、指導教師の30代の女先生は言われた。微笑を浮かべて。

「毎年実習生を受け入れているが、あんなことしたのは、あなたが初めてよ。」

沈思黙考していた女子生徒から感謝され、蹴っ飛ばされた男子生徒はそれ以降、昼食時間、運動場での遊びにしばしば私を入れるため教員室に誘いに来た。
その時は、或る一事で過ぎ去ったが、時と共に私の糧となった。
その指導の先生は、市井の日本近代文学研究者(本業は公務員)の奥様で、実習が縁で、夫君が主宰する同人会にいつも誘ってくださった。私は同人の方々の迫力ある話を黙って聞き、ただ酒を呑んでいただけだったが。
15年ほど前、夫君は亡くなられ、指導の先生は、音楽家の娘さんに護られながら静かに余生を過ごされている。

そんな私は、人に恵まれ、以下の私学3校で専任教諭を経験し(非常勤講師を含めれば6校)、或る時から、先に触れた(海外)帰国子女教育、外国人子女教育に加えて日本語教育に携わり、実に多様な老若男女、人々と出会い、教師体験を積んだ。

・明治時代、アメリカ人女性宣教師によって創設されたキリスト教主義女子中高校。(大学も併設)
・国際都市での新たな国際教育を目指して創設された女子中高校
・インターナショナルスクールとの協働校という日本で初めての共学中高校

娘の在籍中高校は本人の意思から公立校で、高校1年次中退後卒業までは私立(単位制)である。

自身と娘から学んだことを、娘の死を境に、自省し、まとめる時間を続けている。まとめは、あくまでも体験から得た私の価値観、人生観からの、主観を基に客観を目指した言葉である。
こんな私だから教師聖職者的に礼賛したり、知識的(概念的)な教育言葉は少ない。
或る人が、私を屈折者と評したことがあった。私は正直なだけと思っていたのだが。
「正直は最良の策」(Honesty is the best policy.)世の東西、異文化はないようだが、私の場合、策略を用いる才がない、つまりバカ・アホウだけなのかもしれない。

それでも、これから、どこかで、私の学校論?教育論?を読んでもらえるなら、それも教職(とりわけ中高校の)を希望する若者に、中でもこのわがままを絵に描いたような私をオモロイと直感する若者に読んで欲しい、と傲岸にして、無恥そのままに願っている。
もっとも、この時間、いつまで続けられるかは、体力と気力、特に体力、次第としか言いようがないが。

栃木に移住しての10年の間に向き合った娘や生母の死、霊が最後の?お別れ?のためか、円形の透明なゲル状の形になって深夜、寝室の壁伝いに訪れることを経験しているとは言え、聞くわけにもいかず。

哀しみのどん底に突き落とされた親、子、大人、若者のことが、また障害を背負いながら懸命に生きる人々のことが、毎日のように伝えられる。
生活格差は広がり、それとつながる教育の、福祉の益々の歪(ゆが)み、そして平和に係る無責任極まる暴走が、露わに顕在化し、未来への不安と絶望の瀬にある人々が増え続ける寂しい日本社会そのままに。
その度毎に、私は、妻に気づかれないT・P・Oで、私の独り善がりと無為を責める。
そして、江戸っ子“おっかあ”の妻は、らしく外に感情を出すことを恥とし、淡々飄々と日々を重ねている。

亡き娘は、死の1年前の東北大震災の時、体力問題からボランティア活動に参加できない己の無為を、どれほど呪い、責めていたことだろう。

 

2015年6月30日

現代だからこそ情感の言葉と《間(ま)》に会いたい ―日本人の国民性と現代日本と―

井嶋 悠

 

独りあれこれ思い巡らせていると「あやしうこそ物狂ほしけれ」、気が触れたかのような己が絶対善境地に陥る。
娘の無念を心に刻み、親としての、教師としての、自省、悔悟、贖い(あがな)をせめての娘への供養とし、且つ自身を整理したく、2年前からこの【ブログ】に「そこはかとなく書きつけ」ている。  [上記「  」は、『徒然草』の冒頭から。]
ただ、吉田兼好との決定的違い、己が小人を承知しているので、それは不善の臭いともなる。
古人曰く「小人は閑居して不善を為す」と。

孤独の狂喜はひとときで、襲い来る不安、脆弱な自身からついつい逃げ出したく人間(じんかん)にさまよい出る。
娘は生前、「独りであることの安堵と絶対の孤独の恐怖」を言っていたっけ。
幼子の、微笑みや今ここしかない一途な眼差しに、至上の快を持つこと以外多くは後悔し、帰宅を急ぐ。
ましてや、同世代更には上の世代の、高齢者を“印籠”にしたかのような傍若無人に出会おうものなら、権威を笠にする人々への嫌悪と同じく、己が小人を忘れて、腹を立て、やがて寂しくなる。
そして無性に砂浜が広がる海辺に行きたくなる。

行きつ戻りつ、歩むと思えば立ち止まりまた歩み、時に走り、歳月人を待たず、再来月古稀を迎える身。
「独生(どくしょう)独死独去独来」「無常」の真意が、はたまた「大道(だいどう)廃(すた)れて仁義あり。慧(けい)智(ち)出でて、大偽あり。六親和せずして、孝子あり。国家昏乱(こんらん)して、忠臣あり。」(老子)が、人為の知ではなく、体感の言葉として承知し始めた昨今。
その私は、縁あって10年前から自然豊かな地で日々を過ごす年金生活者。
3年前の娘の死と向き合いながら。
古人曰く「衣食足って栄辱(礼節)を知る」……。栄辱(礼節)を、人倫・羞恥と置き換え。

この【ブログ】寄稿を楽しみにしてくださる人もある。「棄てる神あれば拾う神あり」。何という幸い。生きる力。

私は娘を通して、それまでに少しずつ直覚していた生きることの「かなしみ:悲・哀そして愛」を確信した。67歳だった。
教師で、しかも海外帰国子女教育や外国人子女教育に長く携わった私は、「国際」とか「グローバル」といった多くの学校社会が彩る言葉から日本を考えるのではなく、それらを濾過したところから日本そのものを考えることの大切さに到っている。それは、1993年からの日韓、1998年からの日韓中交流、2004年『日韓・アジア教育文化センター』創設を経て、日本の過去と現在を考えることが、自ずと韓国・朝鮮、中国、台湾を考えることになる、との私なりの到達点でもある。

日本は、被爆国にして太平洋戦争[第2次世界大戦]敗戦国でありながら、日本人の勤勉な資質と朝鮮戦争、ベトナム戦争特需の、言い換えればアメリカあっての、恩恵を受け、50年もせずして世界超経済大国の文明先進国となって今日在る。
しかし、思う。
ほんとうに「世界超経済大国の文明先進国」だろうか。
そのように思う根拠については、これまでに何度も触れたが、今幾つかを再び列記する。

国家予算がアメリカに次いで世界2位にして、同じくアメリカに次いで世界第2位の借金超大国(これは何ら心配無用と専門家は言うが、今もってよく分からない。)
無尽蔵の金満国かのように外国への有償無償供与。
国内に眼を向ければ、子ども6人に1人が貧困家庭で、世界に冠たる長寿国、高齢化社会が予測されていたにもかかわらず、財源不足を口実にした福祉の、また災害復興の、停滞、下降、そして安直そのままの増税、つまりツケを国民に回す無責任。
一部?公務員・大企業従事者だけの所得増の現実と津々浦々までの経済成長浸透宣言との乖離そのままでの諸物価高騰。
認知症以外の原因も含めた2014年の行方不明者の届け出は81、193人。
繰り返される政治家の外遊での多額の税金使用に見る尊大と媚び。

問題が起こればその度毎に、善き政治家を自認するかのように得々と提示される対症療法的施策。
例えば、ここ10年余り先進国中1位の自殺者問題(この3年程、韓国が日本を超えているが、韓国人の友人曰く「韓国はまだ先進国とは言えない」との説に立って)。
教育での家庭経済からの歪み。
男女同権度142か国中104位。
「思いやり予算」が象徴する沖縄への本土防波堤視線と言葉だけが虚しく浮遊する憐憫の情(先日の、沖縄戦終結70年の式典での首相の挨拶と「帰れ!」の言葉の決定的違い。命の息吹の有無。)
集団的自衛権に見る“アメリカ正義”への忠実な下僕。追従。
原発なくして文明生活はなし、かのごとき脅しとうごめく功利。
「日本創成会議・首都圏問題検討分科会」の、大都会圏政治家、有識者の無意識化した不遜。
西洋崇拝の日本にもかかわらず、欧米の根源的自問自答からの改革の歴史〔例えば、フィンランドの、国家変革指向があっての教育改革と自殺多数国からの脱却〕に触れず、結果だけを崇める日本。奇妙な自尊心。

これこそ「成金国家」ではないのか。だから多くの私たち国民は「成金」。
将棋に詳らかな私ではないが、金将と銀将、その動きから銀将の堅実さを思ったりする。
因みに、言葉に係る英語圏でのことわざは、「沈黙は金、雄弁は銀」。

ギリシャ時代の哲学者アリストテレス(紀元前4世紀)の「成金」定義を、その要点のみ孫引きする。

  • 幸運に恵まれた愚か者。
  • 傲岸不遜。
  • 贅沢を見せびらかす。虚飾。
  • 金がすべての評価の基準。
  • 他人への無理解。
  • 権力者志向。
  • 古くからの金持ちよりもっと下品。
  • 傲慢や抑制力のなさからの不正行為者。

 

どうだろう?
現在の日本に当てはまると考えられるのは、8項目中何項目だろう。
私の場合、ほぼ上記そのままの上司(管理職の教育者)との職場体験や首都圏からの移住者の多いこの地での生活体験も含めほとんど重なる。そのとき、私は私についてどう言葉にすれば良いのか……。

そんな日本に誇りが持てるだろうか。
次代を担う若者に借金と虚飾の愉悦の他に何を託すというのだろうか。
18歳以上に選挙権を与えた意図は何なのだろうか。まさか、大人の資格を与えることで金銭徴収の義務化意識を染み込ませ、徴収の安易化を図ろうとしているとは思いたくないが。
…………。
大人になればなるほど人間は利己になるとは言え、或る時を過ぎるとその自身を嫌悪する自然が生まれる大人も多い。

日ごろ人々を強い矜持で導こうとする、政治家や官僚や学識者[曲学阿世の徒]、またそれを支えるマスコミ人といった有識者!は、少子化、高齢化になることは当然予測されていたにもかかわらず、その昔、どんな深謀遠慮を働かせていたのだろう。
今日、責任者たちが、学校での「起立、礼」よろしく詫びる姿は恒例!行事化!しているが、短慮を恥じ、心伝わる言葉で詫びる政治家や官僚や学識者を、寡聞ながらほとんど知らない。

学校教育社会は、国や地域社会を確実に反映し、だから学校教育は国・地域を変革する基盤ともなる。
しかし、公私立問わず、実態はどうだろう。あくまでも時の政治の、国の価値観に合った歯車養成場で、それに疑問を抱けば排除される。「個性」を活かすとの教育フレーズの一方での「自己責任」との大義名分による切り捨て?
企業が求める人材養成が教育だ、と豪語する教育関係者は多い。
教育の画一化。全体主義化。
学校への、教師への不信は、確実に増えている。娘のこと、私の体験的知見からもそれは明白である。
その打開は、学校形成者の核、教師の、閉鎖的権威主義や固陋な保守保身についての、教師自身の自問自答なくしては進まない。
良識を模索する教師が教育現場からどれほど去ったことだろう。

言葉の人間のことに思い及ぶ。理知性と感性、霊性と言葉。そして日本人と言葉。
教師は言葉を駆使し、10代の瑞々しい感性は、時に言葉で、時に無言で、時に身体で反応する。思えば益々広がる怖ろしい時間と空間の学校、教室。
よくぞ33年間も続けられたと自賛する私の魯鈍な感性? 或いは生きることでの妥協?
59歳で退職した無茶と己の限界、それを受け容れた豪気な妻への感謝。

「日本人は現実的、即物的な国民」との国民性に係る言説を思い起こす。
例えば、社会心理学者南博(1914~2001)の『日本人論―明治から今日まで―』(2006年刊行)に導かれて知った、「日本人優秀説〈日本人万能主義〉」や「西洋崇拝説〈西洋人万能主義〉」に偏ることに注意深かった教育学者野田義夫の『日本国民性の研究』(大正時代(1914年刊)。
そこで、野田は以下の10項を挙げ、その長所・短所を説く。

1、忠誠  2、潔白  3、武勇  4、名誉心  5、現実性  6、快活淡泊  7、鋭敏

8、優美  9、同化  10、慇懃

その5、現実性について。

【長所】 「現世的実際的実行的」  例えば神仏祈願での[息災延命、子孫繁昌、家内安全、武運長久、国土安全]
【短所】 「浅薄な実用主義、卑近な現金主義、現在主義のため、理想を追って遠大な計画を立てる余裕がない」

この指摘に、多くの日本人が得心するならば、現状の日本を軽薄で、短慮との私の批判は成り立たない。
それは、「諦め・諦念」(「いき」の一要素でもある)、「水に流す」との日本的感性から外れるのだから。
そのときどきが快であれば善しとする刹那を愛し、貴び、言葉もそのときどきの得心で事足りる。
政治家の、官僚の、また評論家の、言葉の無味乾燥さと優越意識の漂いは、タテマエとホンネに鋭敏な彼ら/彼女らの有能さの証しなのかもしれない……。

西洋を範とした文明開化からほぼ150年が経つ。その西洋は言葉を論理ととらえ、学校での言葉の教育は厳しい。そして「国際」から遅れまい、否、世界のリーダーを目指す日本の、欧米教育導入の躍起。
日本の子どもたち真心(ホンネ)はどうなのだろうか。
これまでに出会った多くの、多様な帰国子女の顔が浮かぶ。

論理としての神【キリスト】の言葉を前提とすることの重みとそれが土壌にない日本。
新約聖書『ヨハネによる福音書』は、次の言葉で始まる。
初めてこの一節に接した時の感銘は、今もクリスチャンではないが、私の中にある。

―初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。―

以前、上記部分の英語聖書を幾つかを見ていて驚いたことがある。「言」、「WORD」が、「LOGIC」となっている書があった。
私の英語力は、55年余り前の公立中学校英語から少しも進歩していないが、それでも英語映画を観ていて、彼ら・彼女らの言う「promise」の重さに感心している。
さすが、言葉=論理とした倫理の国である、と。
それに引き替え、日本の「指切りげんまん」の、残酷でもあるが、しかし広がるほのぼのさ。

そこに加わる、母性の国日本、父性の国アメリカといった背景印象の違い。母性=女性、父性=男性との単純等式ではなく。
覆う、包み込むこととしての母性。断ち切る、囲み込むこととしての父性。
人為での、自然との関わりでの、母性要素と父性要素。
更には、「からごころ」と「やまとごころ」の異化と同化の文化史と日本の伝統。

ところで、国際人、グローバル人と母性・父性は、どうなのだろうか。ちょっと面白いテーマとも思うが、まだ不勉強。

大相撲を含めスポーツ選手の「疲労骨折」や文武関係なく「うつ病」発症の増加と現代、そこに近代化による言葉観と日本(人)の風土が育んだ言葉観の狭間にある日本人の接ぎ木疲弊をつなげて思うのは、周回遅れの私の老人性と視界の狭小と牽強付会の為せる戯言なのだろうか。

立ち止まることの意義とそれを許容する社会の優しさの幸せな調和に今も遠い日本。
平均寿命が、1970年の[女:70,19歳、男:65,32歳]から、現在[女:86,61歳、男:80,21歳]
にもかかわらず、こびりついて離れない『18歳或いは20歳人生決定観』。アメリカ追従にもかかわらずそれはそれ的の、何という滑稽。

情感が強く響いた言葉を一つ。
筆者は洋画家斎藤 真一(1922~1994)
[略歴:1942年~1945年、現・東京芸術大学在学中に学徒出陣。卒業後、高校美術教師。1958~1960、フランス留学。藤田嗣治と親交
を深める。帰国後、1962年ごろから瞽女(ごぜ)に、1985年ごろから吉原の遊女(花魁(おいらん))に、心を寄せ、彼女たちの
哀しみを情感込めて描く。]

その斎藤の書『瞽女=盲目の旅芸人』(1972年刊)に収められている、瞽女と彼との恋の情感溢れる絵[赤倉瞽女の恋](赤倉:新潟県)に添えられた言葉。

―赤倉瞽女「カツ」が村の男と親しくなったのは二十歳すぎである。行年四十四歳、カツは岡沢村瞽女宿四朗右エ門(しろえむさ)に
て死んだ。まだ若い姉さん瞽女であったのに……―

切々とした哀しみが、末尾の……と合わされて伝わって来る。

因みに、彼の1972年1月20日の日記には次のように書かれている。

―現代のようにものの大義が渾沌とした時代に立たされると、今まで信じていた歴史の大道もふと懐疑の念をいだかざるを得なくなってしまうものだ。むしろさりげなく力一杯生きて来たある時代の善良なる名もなき人びとの生活記録の方が、(中略)はるかに人間らしく真実がみなぎっていたかのように、ふとそのようなものに感動してしまうのである。(中略)
多くの人たちのイメージの中では、瞽女は全く疎外された暗黒に生を得ていた敗残者のように見られていたかも知れないが、私には少なくともむしろ彼女たちに一つのある光明とも思える実に純粋な芸人としての生活のあり方を見たのだ。(中略)
人の目は、いつの時代にも燦然と輝いた華麗な美しさにあこがれまどわされるものだ。要は美しさが外に向かうか、内に向かうかの違いであって、いずれに軍配があげられるのかの問題ではない。いわば両者に魂のあるかなしかの問題である。―

斎藤が直覚した情感は叙事と叙情の重なった厳しい眼差しで、私が直覚した情感は感傷かもしれない。
斎藤には描画の卓越した技術があるが、私には描画はもちろんそのような才はない。
しかし言葉と人、そして風土(国民性・地域性)と時代について私の中で少しでも鮮明になれば、私の心の中での私の描画ができるかもしれない。

 

2015年6月7日

「このまま死ぬのならむごいものだねえ」 そして ―有識者会議曰く「首都圏の高齢者は首都圏から出て行け」、とさ―

井嶋 悠

「このまま死ぬのならむごいものだねえ」は、作家・尾崎 翠(1896~1971)が、75歳、故郷・鳥取の病院で高血圧と老衰で全身不随の中、肺炎を併発し、亡くなる直前に大粒の涙を流して言った言葉である。 彼女は、生涯独身で、病を抱えながら身内、親族のために作家活動を横に置いて献身した。

私が彼女を知ったのは、元中高校国語科教師だからこそなおのこと一層の無知・無恥をさらけ出すが、つい3年程前、エッセー『悲しみを求める心』に感銘を受けた時である。 娘が、7年間の苦闘の末23歳で憂き世から旅立って間もなくである。
無知・無恥を更に加えれば、それを機に彼女30代に発表され高い評価を受けた幾つかの作品を読んだが、己れの想像力、感性力、理解力の無さを思い知らされるばかりであった。
にもかかわらず、私は、そのエッセーと年譜から彼女の優しさと哀しみに心揺さぶられ、私の中で、神々しいまでに輝く美しい女性の一人となった。 エッセーから何か所かを書き写す。

(父の死に出会った時)
「私の頬に涙が止め度なく流れた。七年以前のその時から今日まで私はたびたびその時の心に返った。けれどそれは  追憶のかなしみであった。……それは人の死の悲しみではなくてたゞ父の死にむかってのひととほりの悲しみであ  ったのだと私は思った。私は父の死によって真の死を見ることは出来なかった。」

「私は死の姿を直視したい。そして真にかなしみたい。そのかなしみの中に偽りのない人生のすがたが包まれてゐる  のではないだろうか。」

母に「私もこれから先十年のあひだだよ」と言われた時。
「私の頬には父の死にむかった時よりももっと深い悲しみの涙が伝はった。それは瞬間のものであったけれど真の涙  であった。母の心と私の心とはその時真に接触してゐた。私の願ふのはその心の永続である。絶えず死の悲しみに  心をうちつけて居たいのである。……私の路を見つけるための悲しみである。」

私はこれまでに、妹の、父の、生母の、そして娘の死に向かい合った。
エッセーを読んだとき、彼女の言う「母」を、私の「娘」と無意識下に重ねている自分がいた。その自身を確かめたくて2年余り私の言葉を続けている。その文章の優劣とは一切関わりなく。
その営みは、私の教師としての、自身としての人生から、生きることの[真・善・美]が、「悲・哀・愛(しみ)」であると確信するようになっている。
更には、その心映え、霊性こそ日本ではないか、とも思いだしている。
そこに【日韓・アジア教育文化センター】の一つの原点があり、一つの背景があるのでは、と個人的に思っている。

それは、浅学を忘れた厚かましさで言えば、日本の伝統美「もののあはれ」に通ずることとして得心している。
その得心を私に与えた一人、日本文学研究家・山本健吉(1907~1988)の『もののあはれ』では、詩人西脇順三郎(1894~1982)の「詩は存在自身の淋しさである」を引用している。 その西脇は、ヨーロッパ体験を踏まえて「人間が本来の性質にある哀愁感にもどることが一つの大切な文化的精神と思う。」と他のところで言っている。

このことは、奈良時代には稀有な長命(660年ごろの生まれ~733年没)で、今日伝えられる作品が、様々な人生苦を経ての60代後半の作である官僚で歌人(当時、職業として歌人というのはなく、職業化したのは江戸時代以降)・山上憶良の歌、中高校の教科書にもしばしば採用される『貧窮問答歌』の志しにもつながることである。
尚、人々の貧窮を歌った作品は、萬葉集中唯一とのこと。
人々と自身の貧窮の実状を述べた長歌の後の短歌は以下である。

―世間(よのなか)を 憂しと恥(やさ)しと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば―
(注:恥し・仏教でいう自身を反省し、恥ずかしく思う心)

ただ、憶良に共感する私だが、 彼の辞世の歌『士(をのこ)やも 空しかるべき 万代(よろづよ)に 語りつぐべき 名は立てずして』(男たるもの、語り継がれる名を立てずに生涯を過ごすことがあってよいものか、の意)のような意思、気概は私にはない。

この賢人たちの生への思いは、生きること・生死一如の葛藤に打ち克ちながら、自然と共に、また人間界に在って、謙虚に生きることの重さ、深さであり、そこに日本(人)を見ようとする意思ではないかと思う。
しかし、今の日本はどうだろう?
これまで何度も具体的に書いて来たので繰り返さないが、私たちの心に巣食っているのは、傲慢であり、独善であり、差別の無意識化で、且つそれに馴致されている怖ろしさであるように思えて仕方がない。
国家予算がアメリカに次いで2位(3位は中国)で、超借金大国で、モノ・カネ物質文明と消費文明を最善とするかのような社会風潮の現代日本。
これは、私の学校教育世界での33年間を、今高齢者となって地方に在住し69年間の己が人生を、顧み・省みることからの私の言葉なのだが、例えば教育と福祉の領域で私と同意見者は周りに多い。
中には、日本をもう一度徹底的に打ち壊し、組立て直すべきだ、と激烈(ラジカル)な言葉を発する人もいる。

そんな折、先日、産業界や研究者でつくる有識者団体「日本創成会議・首都圏問題検討分科会」(座長・元総務大臣)が、以下の事由から高齢者の地方移住促進を提言した。
曰く、
・首都圏の介護需要が、他地域と比べて突出している。
・首都圏の医療、介護の受け入れ能力が全国平均より低い。
・2025年には75歳以上人口が現在より175万人増え、全国の増加数の3分の1となる。
・その2025年に医療や介護の人材が80万人~90万人不足する。

慄然とし、唖然呆然とする。それが副題である。

これは、現状からの将来懸念が数値という客観性で示されているのだが、過去での施策の深謀遠慮と実行経緯の不備、失態の省みがなく、あたかも首都圏在住者の責任のような響きさえ感じられ、同時に地方の人々への温もりもない。
「有識者」とは、この場合政府の諮問的会議ではあるが、一体どういう「識」を「有」する人を言うのだろうか。
また団体名に「日本創成」としたことに、どのような意図が働いているのだろうか。
これは、他のことでも言えることで、「対症療法」は多く提案されるが、根源的(ラジカル)にとらえ直す発想がない。
だから、先の激烈な言葉を、少なくとも私は否定しない。

蛇足かとは思うが、先に書いた「地方の人々」については、地方人=善人といった単純(或いは自虐的優越意識)な発想ではなく、私の今の居住地(栃木県)で聞いた、都会からの移住家族の子ども(小学生)が在地の子どもをいじめるという過去とは真逆の事例が象徴する、現代の差別意識の根底、背景にあることへの疑問から言っている。
と同時に、今もって「同情」と「愛情」の間を彷徨っていて、つくづく愛情の稀薄である私を自覚しているのだが。

立法・行政を担う政治家たちは「私たちは選挙で選ばれた、言わば国民総意の体現者ですよ」と言うのであろう。
しかし、その言葉は、どういう国民を頭に描いてのものなのだろうか。
それは教師が、親が、人々が、「児童生徒学生」を言うときと同様に、そこに発言者の生の価値観、人格が見えない。例えば「グローバル人材育成と海外帰国子女教育」と言われた時と「企業が求めるグローバル人材育成と海外帰国子女教育」と言われた時の違いのように。

18歳選挙権が確定した。
飼い馴らされた20歳以上の一部?大学生・社会人の若者より、厳しさと激しさを未だ秘めている高校生が選挙権を持つことに、私は期待を寄せている。
教科によってはその授業との関連で、或いはホームルーム活動で、課外活動で、思想と現実の政治(政党ではない!)について、結論をせっかちに求めることなく、しかし生徒の時機を逸することなく、各生徒の生の問題として、時に教師が問題提起者となり、大いに議論したら良いと思う。
それは「国民のために」と当然過ぎることを正義派よろしく声高に言う政治家を選ばないことになるし、これも繰り返しの自省として、教師の独善、傲慢の自覚と反省、意識改革にもつながるであろう。
一部で、高校生の政治活動への懸念が言われているそうだが、そのこと自体、理と知だけから人を見ようとする大人の独善、傲慢である。
1918年(大正7年)、詩人・西條八十(1892~1970)が、童謡(唱歌)『歌を忘れたカナリヤ』を作詞した。 その一番の歌詞。

歌を忘れたカナリヤは うしろの山に捨てましょうか
いえいえ、それはかわいそう
歌を忘れたカナリヤは 背戸の小藪に埋けましょうか
いえいえ、それはなりませぬ
歌を忘れたカナリヤは 柳の鞭でぶちましょうか
いえいえ、それはかわいそう
歌を忘れたカナリヤは 象牙の船に銀のかい 月夜の海に浮かべれば、忘れた歌を思い出す

詩、「うた・歌」。
私自身全くと言っていいほど無縁であるが、先人は31音の和歌に、自然への、人への思いを託した。
つい70年前、太平洋戦争で、日本のために命を散らした学徒兵たちも辞世に際して和歌をしたためた。
そう思って、西條八十(当時、西條は生活苦にあったとのこと)の詞、とりわけ最後の2行を読むと、子どものための歌を越えた大人への警鐘とも取れるのは、あまりに私の取り過ぎだろうか。
その漢字「海」は、1画少なくなって(合理化?)「母」が消えた。

私の中で、やはり「母性」「父性」そして「親性」が、それも日本(人)の、気にかかる。
そんな折、根ヶ山光一編著・氏を含め10人の大学教員執筆による『母性と父性の人間科学』(2001年刊)という書に出会った。学術的予備のない私だが、教えられることの多い書なので各章の表題を抜き出しておく。

1、生物学からみた母性と父性
2、霊長類としての人の母性と父性
3、日本史における母性・父性観念の変遷 ―中世を中心に―
4、母親と父親についての文化的役割観の歴史
5、江戸の胞衣納めと乳幼児の葬法
6、ポスト近代的ジェンダーと共同育
7、発達心理学からみた母性・父性
8、教育関係のエロス性と教育者の両性具有 ―教育学における母性・父性問題
9、同性愛の親における母性・父性

付記すれば、8章は、在職時いろいろと考えさせられることも多く、この問題についてこれまでより踏み込んだ研究があまりない、との筆者の言葉と併せて、より身近な説得力があった。

 

2015年5月27日

「すなほならずして、拙きものは女なり」 ―されど「男は妻から(治まる)」―

井嶋 悠

 

表題の「すなほ・・・」は、吉田兼好『徒然草』(鎌倉時代末期1330年ごろ)の一節である。
その前後では、女は、ひねくれものとか、我執が深いとか、道理を知らぬとか、おしゃべりとか、賢女は人間味がない等々と、惨憺たる評である。
もっとも、恋愛、愛慾対象としての女[「色好み」の美]論では賞讃の嵐だが、これについては王朝貴族の伝統美への考え方と関わり、軽々に是非を言うことには注意しなくてはならないと思う。
ただ、個人的には、生と美を包む「悲・哀と愛」しみと、男女の中で重なるものがあるように思える。

(不勉強で、兼好のこの女性観について、男性(それも古典的?)の解説等には接しているが、女性の側からの意見は未だ確認していないので、この機会に是非確認したいと思っている。これも[ブログ]と言う自己整理の功かもしれない。)

私は、人並みに女性への関心はあるが、とりたてて恋愛崇高信奉者でもない。
しかし、生い立ちや職場(男女差別のない〈はずの〉学校社会)、また他の機会での、能力的、人格的に優れた女性との出会いから、女性敬愛者にして男尊女卑懐疑者ではある。
だから、時代と立場の違いがあるとは言え、兼好の酷評には全的に同意していない。

(尚、海外帰国子女の在留地生活形態から母親の影響の強さが指摘されている中、帰国子女を積極的に受け入れる学校教員時代、理想を生徒の前も含めて滔々と語る同僚(男)が、或る男子高校生のことで私に「あいつはマザコンだ」と言い放ったことがあった。その瞬時、私は「マザコンで何が悪いっ!」と感情を爆発させた思い出もあり、私の中の“マザコン”要素は否定しない。)

私が言う能力的とは、当たり前のことながら学歴など関係なく、他者の意見を傾聴し、独善を振りかざすことなく対話と仕事をする人であり、人格的とは「謙虚」を体感的に熟知し、実行している人のことである。

その私は、自省を込めて、現代日本の危機は男女問わず謙虚の喪失であると思っている。

その気持ちを表わしたのが「男は妻から(治まる)」の副題で、女と妻は違うとの指摘もあろうかとは思うが、現実の日々での女性は、妻を通してしか知らない私の活きた言葉である。

ジョルジュ・ミシュレなるフランス人(フランス革命でも活躍した、18世紀の政治家にして歴史家)は、次のように言っている。

―妻は夫の娘である。……妻は妹でもある。……妻はまた母でもあり、男を包んでくれる。ときとして男が動揺し、模索し、空には自分の星
がもう見えないという、そんな闇の瞬間に、男は女の方をみつめる。すると星は女の眼の中にあるのだ。……―

さすが、フランス革命に尽くした人だけのことはある。

彼が言う妻が、私が言う謙虚かどうかは知らないが、
映画『かくも長き不在』(アリダ・ヴァリ・演)や『居酒屋(マリア・シェル・演)』に登場する女主人公に魅かれる私としては、能力と謙虚を兼ね備えた女性であろうと思っている。

これを書いている今日[5月24日]、白鵬が破れ、同じモンゴルの若者照の富士が初優勝を飾り、来場所の大関を確実にした。
繰り返される、時の流れと人・命あるすべてのもの、との係わりの寂しさ、虚しさを再確認しているが、同時に、私の中で、独り横綱として日本の国技を支えて来た“外国人”白鵬への、ここ最近繰り返されている手のひら返したバッシング[白鵬たたき]に見る非人間性、独善性、それを誘導するマスコミの、横綱審議会委員等への嫌悪・不信が益々募っている。

例えば、NHKの一部?アナウンサーの道学者的言葉、横綱の品格を諭す審議会委員の中で、どれほどの人が人間としての品格を持っているというのだろうか。
そこには、不完全な万物の霊長ゆえの苦悩を持っている同じ人としての眼差し、優しさ、謙虚は微塵もない。
日本の“嗚呼!勘違い!”を改めて直覚させられている。
24日千秋楽の解説は、もちろん北の富士氏であったが、うまく言葉が出ませんと言葉を詰まらせていた様子に、私の勝手な想像とは言え、氏の人格の高さを思わずにはおれなかった。
今回は、そんな私の、女あっての男、妻あっての夫についての雑考である。

高齢化社会となり、定年も65歳とするところが増えて来ているので、次の感慨は65歳以上の人が多いかもしれない。
曰く、今の若者は、こらえ性がない、耐える力がない。
話の重心が若者の自殺ともなればそれに拍車がかかる。
それを言う御仁は、私の体験では、それぞれの世界、道程で、矜持からの自尊を持ち得た人々のように思う。もちろん、独善的自己顕示の虚栄を響かせるような言葉を言う御仁ではなく。
その私には、古稀直前ながら先の感慨が過(よぎ)らない。それは、私の中で達成感とかそういった矜持がない証しなのかもしれない。

思想家・唐木順三(1904~1980)が『自殺について』(1950年刊)で言う、次の言葉に共感、同意している私なので。

――思想と感覚の乖離に苦しんだはてに自らを殺していった人々は、我々の苦しみを典型的に苦しんでくれたのである。――

(因みに、氏の、太平洋戦争・東京裁判で絞首刑となった7人のA級戦犯の最期について、広田弘毅、松井岩根への敬愛漂う言葉、他の5人の辞世の歌を介した厳しく断ずる言葉に、大いに頷き、同時に自省を促す。
そして、娘が生前好意的に発した人名の一人が、広田弘毅であった。
和歌の素人で浅学のこの私でさえ、5人の辞世歌は酷(ひど)過ぎる。昭和天皇はどのように受け止めたのだろうか。)

人+憂=優。
憂き世にあっては、「生きる力」はやはり耐える力なのであろう。
乗り越え、生き抜いて来た人は優しい。
しかし、形容語にはその人の人生と生の価値があることからすれば、頓挫した人の優しさもあるはずだ。
そして、前者の優しさより後者の優しさに親しみと、時に敬意さえ寄せる、言葉だけを弄する勝手で無責任な、私が、いる。

「めめしい」は「女々しい」と書く。反対語は「おおしい・雄々しい、男々しい」。
男のささやかな抵抗?
神(天)は男女の特性が、それぞれにまた一体として活きる共同体を描き、創生した、と思う。
先ず、母系・母権から始めた。やがて人間の哀しい業、利他を言いながらも結局は利己の、“戦い・戦争”が始まり出し、肉体力に勝る父系・父権に移行した。

日本は天照大神を始源とする。
「元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。」と言った、
平塚らいてう(1886年明治19年~1971年昭和46年)を思い起こす人も多いと思う。
では、今、日本で「病人のような蒼白い」女性は、なくなったのだろうか。

川端康成が、ノーベル文学賞受賞スピーチで引用した道元禅師の歌、「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷(すず)しかりけり」や古来の“春秋論争”に、太陽と月のそれぞれの美に、日本人と自然を見る私は、らいてうの言葉に、彼女の生の激情と併せて二つの叫びを見る。
女性を隷属する男性への怒りと、それぞれの美をないがしろにすることへの怒り。

このことは、江戸時代が、私にとっては「武士道」よりも「かかあ」が先ず浮かぶことともつながる。
西洋文化圏は、聖書文化からも父性優先世界と思っているが、そこにも近代化=西洋化・西洋に追いつけ追い越せの歪、無理が日本人にはある、と思うのは私だけだろうか。
「かかあ天下」に漂うほのぼのさ。安らぎ。男の勝手と承知しつつも……。
女性の、無限の、自然の愛の深さ。母性。母なくして子は育たぬ。
大地も、大海も、根底に流れる「母」。
「母なる大地」「(今は消えてしまった)海の漢字に込めた“母”」

【参考】

「かかあ天下」は、英語でどういうのか。[『アンカー和英辞典(小学館)』から]

――彼の家はかかあ天下でね。何をするにもまずかみさんに相談してからなんだ。

He’s a real henpecked husband ; he never does anything without asking his wife first. [henpecked husband  恐妻家]

私注:
英語圏文化に精通していないが、ここには「かかあ天下」のほのぼのさはないように思える。
否、ほのぼのなどということ自体が、男性優位発想なのだろうか。

その日本の男女同権度(男女平等度)は、142か国中、104位とのこと。
(因みに、1位はアイスランド。2位から4位は北欧三国。アメリカは20位。9位でアジアでの1位はフィリピン。中国は87位。韓国は117位)

104位、さもありなん、と思う。
何が先進国!?何が世界のリーダー!?何が積極的平和主義国!?……。
先進国とは? リーダーとは? 積極的とは?

男女同権、共同社会を声高に言う今の首相の、立法・行政の要人たちの、言葉の端々、行間に漂う偽善。
しかし、女性の任用の数量的拡大だけで解決するのではない。併行しての無用な男性の、また現社会的で既に活躍している女性の、猛省、更には潔い自覚的撤退の必要を思う。
その物差しこそ能力と人格ではないか。
それを決めるのは高人格の他者である。自薦者の醜態を幾つも見て来た。

以前、職場(インターナショナルスクールとの協働校)を共にした、外国人も含めた同僚から典型的なアメリカ人と言われていた、その親愛の情の豊かさから、多くの生徒に慕われていた男性教員の言葉。

「会議等で、私が、私は、と他人よりちょっとでも先に言う姿に辟易した。疲れる。」と。

そのアメリカ人は日本人女性との結婚に憧れていた。

【備考:その職場での同じ英語圏のアメリカ人・イギリス人・オーストラリア人。カナダ人の関係は、なかなか興味深いものがあった。】

繰り返し教育と社会の価値観の変革の緊要さを思う。
学校教育世界は、地域の、国の社会状況を見事なまでに映し出す。だから教育が変われば社会も変わると言える。その教育を変えるのは、大人であり、特に教師であると痛切な反省、人の振り見て我が振り直せ、から思う。

例えば、海外・帰国子女教育世界。
その家庭を含めた在りようは、時代を反映する。海外在留の大半を占める企業派遣や官庁派遣の実状は、30年前40年前とどのように変わり、そのことで、保護者・子どもの意識はどう変わったのか。
派遣教員の、通信教育の、海外進出塾の実状に変化はないのか。
また、
少子化に伴う主に私学経営からの女子校の、男子校の共学化でどのような変化をもたらしたのか。
「良妻賢母」「強い男」育成を学校目標とする女子校での、男子校での、過去と現在での「良」と「賢」また「強」は違うのか。違うなら、そこにどのような社会意識が反映しているのか。
現代だからこそ女子校の再評価を、との声も聴く。それは、旧来の男観女観の意識変革が動いているととらえることができるのだろうか。

日本社会の方向性、そこに生きる生徒の年齢、地域の、家庭の環境、学校の教育目標の違い等々、多様な現実・現場を無視した抽象的教育論の、それも理想(ロマン)を己が絶対善も併せて語ることの空虚と寂寞そして高慢に気づかない教師や研究者・評論家。

太平洋戦争とその前後の日本の近代化を再確認し、高齢化、長寿化そして少子化の現在を、正の社会的試練ととらえ、付け焼刃的対症療法ではなく、民主主義国家《日本》としての長期的展望と戦略を明示しなくてはならない時を迎えている日本。そこにこそ“専門家”の役割があるのではないか。
それが、今の、内閣・研究者・マスコミが導く姿なのだろうか。
私には、到底そうは思えない。

展望と戦略で思う具体的なことについて少し挙げる。

乳幼児から老人までの福祉の充実、被災地(福島、宮城、岩手等々)復興の加速化、物価高騰に見合う一部大企業や公務員だけではない国民の所得増加、地方再生(創生と言う用語は使い方を間違えている)の裏付けとなる財政、自衛隊の“軍隊”化の経費、等々。

にもかかわらず、平均5000万円前後を掛けて歴代首相最多の外遊をする首相。その必要と成果は?被災地支援以外の海外の資金供与、増税の根拠の過去の施策を覆い隠す言い分、等々。

これらを肯定的に承認するのが良き日本国民、とはあまりに不可解と思うのだが、それは前回書いた。

精神科医で随筆家であった斎藤茂太《1916~2006:和歌史に名を残す歌人にして精神科医斎藤茂吉(1882~1953)の長男で、弟は同じく精神科医で作家(もっとも後年躁鬱病を発し、そんな人間がするのはおかしいと精神科医を廃業)北杜夫(1927~2011)》の、短いエッセー『私の死論は「夫が先に死ぬ」』を思い出した。
世間のことに全くと言って疎い自身を自覚して、妻に先立たれたらどうしよう、との強い不安を仲間と共に日ごろ話している、といった内容である。
いたく共感同意した。

給料をはじめ金銭及び、衣食住一切の管理運営をし、「よくまあこれまで世の中の諸々を知らずして生きて来られたねえ」「今の若い女性ならとっくに離婚だろうねえ」とさらりと言い、私立中高校では稀有な所属校を3度変え、或る時期の2年間、二人の子どもの母として物心苦境に陥っても一切苦言を言わず、先に引用したジョルジュ・ミシュレの言葉「星は女の眼の中にある」を、高低・強弱の抑揚なく淡々と言うカミさんを娶り37年が経つ。

カミさんの星の言葉を一つ挙げる。

これは教師であった私の自己嫌悪と重なるのだが、学校世界の、とりわけ校長をはじめ教師の独善、権威志向、要は私が言う「人格」の真逆が、最高潮に達した定年1年前59歳で、一切退く決意をした時のカミさんの言葉。

「いいよ。何とかなるよ。」

そのカミさんが、娘の、教師が一因となる7年間の苦闘にひたすら向き合い、護り続け、死を経て持つ、教師への激烈な不信と、マスコミ登場する教育研究者、評論家、またマスコミ人の独善と傲慢への痛罵。

娘に先立たれた上に、このカミさんに先立たれたらと思うと、手すりのない吊り橋に立たされた気持ちに襲われ、不眠症的症状を招くことさえある。

かの一休禅師が88歳!で死を迎えたとき、森女(しんじょ)[一休77歳の時からの弟子であり、一休に深く愛された盲目の旅芸人の女性]の膝を枕に「死にとうない」と言った由。
その一休さんの言葉を幾つか引用する。

女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む。

世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬを待つばかりなり。

南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ。

親死に 子死に 孫死に。

大人(たいじん)と小人(しょうじん)の致命的差を承知し、想像を絶するあまりに遠い世界ながら、羨ましく、妬ましく、憧れる、そんな共感を持つ私もいる。

あれこれ思い悩ます第2の人生、老いの“青春”の日々である。