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2016年4月18日

現代日本社会の「文明」に想いを巡らせてみたい……[序] ~東北地震・福島原発そして熊本・大分地震から~

井嶋 悠

分不相応を越えた表題で我ながら気恥ずかしいが、日本近世文化研究者・田中優子さんの『江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか?』を読んでいたら、「隠居してこそ、わが人生」との1章に出会った。日本文化史に燦然と輝く江戸時代の著名人(氏が採り上げた人物は、歌川広重、平賀源内、井原西鶴、松尾芭蕉)、伊能忠敬、小田宅(いえ)子)は、隠居して豊かな業績へと邁進した旨のことが書かれてあった。何か志のある人はそのためにまず働き、老若年齢関係なく或る時期に隠居し、隠居は新たな人生の出発で、人々にとって憧れだった、と。
現代のどこか消極的、他律的印象ではない、積極的、自律的な隠居像が浮かぶ。

私は10年前に隠居!し、豊かな自然の下で多くの人が憧れる生活を始めた。しかし、4年前に娘の死に遭うと言う途方もない試練を受け、公私両方から自照自省を始めている。このブログ投稿はその都度の拙劣な集成の試みであるのだが、私の場合は「小人閑居して不善を為す」とわきまえている。
ただ、愚鈍なこの私でも、隠居することで心との対話が繁くなり、“生”と“世”が見えて来る。ましてや田舎生活だからこその都鄙格差が体感できるのだから、上記の著名人なら何をかいわんやであろう。
そして今回の表題である。

娘の4回忌(4月11日)を、娘も納得する急な事情で、彼女の永遠の根拠地・井嶋家の菩提寺(京都)で過ごせなかったため、心ばかりの供養と私の心の再構成から久しぶりに上京した。上京して彼女を偲ぶ場所の一つは、娘が強い関心を寄せ自学していた太平洋戦争の、旧址「巣鴨プリズン跡」である。何度か一緒に行っていたが、4年の時間は、その時のことも以前とは違った激しい心象で甦らせる。
(因みに、A級戦犯として絞首刑に処せられた七人の内、彼女が心酔していたのは、広田弘毅と板垣征四郎であった。)
東京の或いは大都会の魅惑と嫌悪を新たに追確認して帰宅したその夜、熊本地震が起きた。

以下は、一昨日16日の新聞報道である。

――気象庁の青木元(げん)地震津波監視課長は16日午前の記者会見で、熊本、阿蘇、大分へと北東方面に拡大していく地震現象について「広域的に続けて起きるようなことは思い浮かばない」と述べ、観測史上、例がない事象である可能性を示唆。「今後の活動の推移は、少し分からないことがある」と戸惑いを見せた。――

地震津波監視課長と言う立場にあっての発言の難しさがあろうかと思う一方で、氏の豊かな人格を直覚し、触発され、私の思いに重ねたことを今回書く。

私が、現地を訪ねて支援(ボランティア)の何かができるわけでもない。できることは義援金を送るか、何か発言することぐらいである。そこで拙い言葉を綴る。
この同じ葛藤を、娘の場合は東北大震災時、心身の病にあって苦悶と言っていいほどに歯噛みしていた姿が思い出される。

自然を征服してこその人類との西洋文明観に、その西洋が痛切に反省し始め一世紀ほど経つ現代、日本は今、どれほどに自然に謙虚であるだろうかと思う。人為の限界などどこ吹く風、絶対、完全との言葉を神為よろしく豪語、煽動的に言う様々な領域の人の何と多いことか。
災害時に備えての注意事項がしきりに伝えられ、地域の危険個所が指摘されてはいるが、各家庭等に、危険個所等に事前配慮、整備がなされているだろうか。また災害後の復旧と再生で、災害者にどれほどの安心を与えているだろうか。東北大震災と福島原発災害の現在をどう見ればよいのだろうか。

時に災害にほとんど無力でさえある私たち人間は、長短はあっても一切の例外なく訪れる死について、或いは死と生について、どのような心構えを持ち得ているだろうか。もし自身のより深い所で持ち得てないとすれば、それはなぜだろうか。若いからは理由にならないのではないか。文明は常に前進するものとの、陽性の先入観に侵され続けているのではないだろうか。
宗教教育といった特定領域の教育のことではなく、また年に1,2回行われる講師を招聘してのセミナー的なものでもなく、どれほどに学び得ているだろうか。

政府等行政は財政不足を言い、増税の大義名分に立て、かてて加えて少子化、長寿化で、年金、医療の将来危機さえ言い出す。

[ここで、国都道府県市町村政治家(議員)の、時に世界への虚飾的矜持かと見まがうかのような国民の税金の濫費やそのことへの言い訳《言葉》の寂しさのことは言うまい。古人曰く「過ぎたるはなお及ばざるが如し」で、何度も言う寂しさはあまりに酷(むご)いので。]

この国の在り方に本末転倒を見るのは、社会を主導する人々からすればそう言う見方こそが本末転倒なのだろうか。それとも日本が世界の先進国たるためにはやむを得ない犠牲であり、文明の発展は都市化であり、近代化で、その恩恵をどれほどに受けているのか自身の胸に手を当てなさい、とのことなのだろうか。
明治ご一新の「文明開化」に始まり、西洋に追いつけ追い越せと勤勉な国民性をしゃにむに発揮し、1945年8月15日の歴史的敗戦にもかかわらず、今日では追いつかれ、追い越される対象国となるほどの文明国日本。しかし一方で、西洋社会の心ある人々による文明の自照自省、そこから爛熟化複雑化と叡智の狭間での幾つかの兆候、現状を採り上げ、「文明の崩壊」を言う人たちがいる。

九州には、玄海原発(佐賀県)と川内原発(鹿児島県)があり、熊本県はその間である。東北大震災と福島原発と同列に言えないかとは思うが、それでも原発がなぜ必要なのか、そこに疑問を持つ専門家の言葉をマスコミはどれほどに伝えているだろうか。(近くの公立図書館には原発関係の、とりわけ反原発、非原発関係の、図書が数十冊まとめて並べられている。)
一説によれば、東京で、東海で、大地震が極近時にあるとのこと。
対症療法の限界を疾うに越えたおぞましさとおそろしさがそこにあるように思えてならない。

保育園建設が地域住民の反対でできなくなったとのこと。誰しもえっ!と思うが、子どもの声を騒音とする感覚と子どもの保護者の送迎に係るマナーによる危険との理由を聞いて、その驚愕をはたして持ち続けられるかどうか。あまりにも根が深いと思う。
東京等大都会で当然のごとく横行している歩行者道路での自転車の、人との、自転車同士の一触即発の行き交い。自動車の路上駐停車なくして営業のかなわない業務実態社会。狭い道路を人すれすれに、殿様気分を誇示したいのか、すり抜ける大型自家用車群……。
高齢者、幼児たちへの、また都会暮らし不適応者への無言の退去圧力……?

教育はすべての人間が係わることであり、教育が家庭、学校、地域、社会を映し出す鏡であることを、誰しも承知していることであるが、その教育社会、とりわけ学校教育社会も対症療法の限界に来ている。
ここ何年かフィンランドの教育の素晴らしさを言う人が増えているが、その人たちの中でフィンランドが一時自殺大国であったがゆえに国の在りようを変革した結果であることをどれほどの人が言っているだろうか。
社会が、その社会を動かす政治家や官僚やそれを支え誘導する専門家が、思いつき的?に出した提案でどれほど学校は、教師は振り回されて来たことだろう。「(横断的)総合学習」然り、「センター入試」然り、「偏差値教育」然り、「英語教育」然り……。学校社会構造は聖域としてそのままに繰り返されるとかげの尻尾切りがごとき対症療法。

最後に、中高校国語科教育の私事体験から拙付記を。
海外・帰国子女教育は日本社会を見事に映し出す鏡であることを痛感したが、先年の「(横断的)総合学習」の本質的反省もないままに、ヨーロッパに起源を持ち、インターナショナルスクールや欧米の現地校で多く採用されている「国際バカロレア教育」に向かうあさはかさは一体どこに由来するのだろう。
これが日本の文明観また文化観なのだろうか、と日本で初めてのインターナショナル・スクールとの協働校勤務から、国際バカロレアを直接に、間接に(海外在留子女への通信)指導した私は自分に問うている。

2016年3月19日

「眼は人間のマナコである」から “言葉”の極点 「噺家は喋っちゃアいけない」へ……

井嶋 悠

1年ほど前から眼科に月1回通院している。医師曰く「白内障です。歳相応の自然な病です。酷(ひど)くなったら手術しましょう。手術は簡単です。」数年前に開院したその医院、女医2人と老男医1人と10数名の助手、事務(すべて手際秀でた快活な女性)で構成され、1階が診療室で2階は手術室等、40人は入る1階待合室は明るく広く、連日千客(?)万来、ほぼ7割は高齢者で、私などまだまだ若輩で末席を汚している。
先日、左目の急な視力低下から検査を受けに行ったときのこと、待合室で心洗われる光景を目の当たりにし、改めて70年間生きて来た時間を思った。不意に訪れた自照自省への導き。

2歳くらいの女の子を抱いた、二十歳を過ぎたばかりであろうか、健康と若さが造り出す瑞々しく弾けんばかりの女性。母娘であることは一目瞭然。二人の日々の幸いを映し出すかのような愛くるしさ。時折、立ち上がっては壁の医療関係掲示を、その真剣な眼差しはきっと娘を思ってのことだろう、一つ一つ見入る母。助手から呼ばれ、診療室に移動して数分後のこと、二人は老医師と助手に連れられて待合室に戻って来た。

「ここなら大丈夫。泣いたのは誰かな~。ほら見せて~。」老医師の加齢が醸し出す太く優しい声の響き。周囲の老人たちの微笑み。

(微笑みの見守りを投げ掛けるのはほとんど女性。爺さんたちはどうしてああも仏頂面しかできないのだろう。それが齢(よわい)を重ねた日本男児?の意地ということなのだろうか。いやはや。もっともっと私の心に素直になろう、とここ数年、思いが強くなる私)

ことの進行が呑み込めない娘、心配げな母。娘は、老医師の手が頬に触れようものなら瞬時に母の胸に顔を寄せ、曇り顔へ。
「分かった、分かった。うーーん、どうかなあ~。」、触れる触れない薄皮一枚の距離感で診察した老医師「お母さん、大丈夫だよ」と、その理由を丁寧に説明する。一言一句聞き逃さない母の美しい眼差し。「泣いたのは誰かな~」、今度は頬を瞬間つまんで立ち去る老医師。娘は目と口一体に呆然と、立ち去る医師と助手を追っている。真と善と美のかけがえのない気の一瞬、和み。

関西都市圏生活から北関東の地方都市に移住して10年。このような出会いは、都会生活時よりはるかに多いと思う。このけたたましく乾いた現代日本での都(と)鄙(ひ)の人の情の美しさを言う人もあるかもしれない。しかし私にはまだそこまで言い得る言葉はない。今言い得るのは、加齢ゆえの琴線の顫動(せんどう)なのだろう、だけである。
少し前に読んだ稀代の落語家(噺家)・5代目古今亭志ん生(1890~1973)の随筆が思い起こされる。

「人間も六十の坂をこすと、色々な事を考へるやうになる。」と言う書き出しで始まる情味豊かな一文。『眼は人間のマナコである』。

志ん生は、或る時、或る大学の総長から「きみは哲学を知ってるね」と言われ、きょとんとしたとか。私は哲学の意味が分かって分からない一人だが、少なくとも知識量とか学歴とは無縁だと思っている。そして志ん生のこの一文が、それを証明している。志ん生の学歴は小学校卒。
その学長の自然なそしてどこまでも静かで、優しさ滲み出る“凄さ”が浮かぶ。

思考飛躍を承知で言うが、大学教員は教職世界で唯一資格要件なしと思っていたのだが、超高学歴専一の昨今を不思議と思っている。もっとも、幼稚園から高校までの要資格教員制度に時折得心が行かないこともあったが。これまた大学院修士課程中退者の自省の話。

私は60歳を越えること6年、娘の死に向き合い、自照厳しく迫られ、今在る。
先の眼科医は医師、志ん生は師匠、私は教師。「師」!
先の老医師の相手を慮っての絶妙の間合いと短く的確な言葉。私はついついしゃべり過ぎ傾向大の教師で、しかも国語担当。
志ん生は「私達の声の出し方には一つの順序がある。先ず稽古したハナシを大声で喋る。つぎに早口に これをミッチリやって、人物の表現に苦心し、仕種(しぐさ)の勉強に次いで、最後に間(マ)と取り組んで一生を費やす。この間は魔といはれるほどに中々その正体を摑み得ないもの……」と言い、
「盲目に成った柳家小せん(1883~1919)師が“噺家は喋っちゃアいけない……”といった。この言葉の意味はこの道に入ってツイ最近意味がわかってきた。」に続けて、「兎に角六十を幾つか越してやっと行く道がわかって来た。人生は六十からとはうまい言葉だ。」と言う。

私は、昨年夏古稀を迎えかろうじてわかって来た。遅過ぎるとも言えるが、ありがたいことに妻が揶揄する「病は気から」!?の体調不良だけで生きているのだからわかった時が吉日で、遅い速い或いは歳相応など気持ちの持ちよう、人それぞれと思っている。
娘の死が私に迫って以来、自照自省の証しと言わんばかりに拙悪文を書き始めて4年目の今年、自身を、私の言葉で、表わすその苦に襲われながらも悦の一瞬もあって、きっと娘は喜んでくれているだろうと霊感よろしく独り善がりになっている。
これまでに出会った人々には、当然とは言え直接に間接に口さがない人々も多いが、孔子が自身の体験から言う「耳順」の意味での馬耳東風が少しは自然にできるようになり、娘への感謝も日毎に強くある。娘に酷(むご)い話である。

「眼は人間のマナコである」は落語界での鉄則的言葉とのこと、そして「噺家は喋っちゃアいけない」。
何と怖ろしいほどに魅惑的官能的な二つの言葉。

私たち『日韓・アジア教育文化センター』は、教師が創り出した団体で、だからこそこの二つの言葉は激しく私たちそれぞれに迫る、と私は思う。
そして医師も落語家も教師も、それぞれの理由で望み、然るべき金銭を支払って来た老若と向き合い、何がしらの充足を与え、時に憤慨と哀しみを与え、それをもって生計を立て、家族を養う。概念化して言えば正に「師」の生き様……と、厚顔無恥そのままに言う、私は元中高校国語科教師。

日本近代詩の最高峰と文学史で讃えられ、私もそれを得心している詩人が、私たち日本人に、近代化の日本について気づかせ、再考を促した作家で日本研究者の小泉 八雲(ラフカディオ ハーン・1850~1904・父はアイルランド人、母はギリシャ人)について、その妻(松江の士族の娘・節子〈セツ〉)の、内助の功を得てこその八雲のこと、また二人の至福な関係を書いた文章に次のような一節がある。

「元来人間の会話というものは、動物に比して甚だ不完全なものである。……目をちょっと見合すとかいうだけで、相互の意志が完全に疎通するのに、人間は廻りくどく長たらしい会話をして、しかもなお容易に意志を通じ得ない。(中略)単に眼を見合すだけで、一切の意味が了解される恋人同士の間には、普通の意味での言葉や会話は、全く必要がないのである。」

高校時代の恩師が、私の教師着任に際してのはなむけの言葉の一つが、悪戦苦闘の教師の日々であった33年間の苦笑とともに浮かぶ。

「授業の終わりに生徒の3分の1がお前を見ていたら大正解と思え。」

そんな私の、公私人生を厳しく責め立てるがゆえに大好きな詩をまたまた引用する。茨木 のり子(1926~2006)の「こどもたち」

こどもたちの視るものはいつも断片
それだけではなんの意味もなさない断片
たとえ視られても
おとなたちは安心している
なんにもわかりはしないさ あれだけじゃ

しかし
それら一つ一つのとの出会いは
すばらしく新鮮なので
こどもたちは永く記憶にとどめている
よろこびであったもの 驚いたもの
神秘なもの 醜いものなどを

青春が嵐のようにどっと襲ってくると
こどもたちはなぎ倒されながら
ふいにすべての記憶を紡ぎはじめる
かれらはかれらのゴブラン織を織りはじめる

その時に
父や母 教師や祖国などが
海蛇や毒草 こわれた甕 ゆがんだ顔の
イメージで ちいさくかたどられるとしたら
それはやはり哀しいことではないのか

おとなたちにとって
ゆめゆめ油断のならないのは
なによりもまず まわりを走るこどもたち
今はお菓子ばかりをねらいにかかっている
この栗鼠どもなのである

「こどもたち」とは、最終連から小学生のような印象を持つが、中・高校生でも確実に私の心象に浮かぶ。大学生はどうだろう? 今の世、十分成立するのではないか。もちろん大学生の幼稚化といった類の大人風(おとなかぜ)を吹かした驕(おご)りの発想ではなく、である。
或る者たちは「ゴブラン織り」を始め、「哀しみ」に心覆われ、思い煩い、悶え、しかし時間は無色透明飄々淡々と過ぎ去り、周囲は、社会は、憐れみと言う同情を愛情のように言い、或る者は自身で自身の命に終止符を打つ。
この世に生を得、祝福され、わずか10数年にあって、「疲れた」と呟く子どもたち、そんな若者たちに私はどれほど出会って来たことだろう。
日本は世に言う“文明国”“先進国”で、自身で自身の命に終止符を打つ数が、この10年先進国第1位である。
日本の原型とはこれほどまでに非情なのか。政治家の言葉の虚しさ、言葉の偽善が、益々際立ってくる。大人たちが、教師たちが「眼は人間のマナコである」を自身の内奥に確(しか)と持ち、その自然な発露ができる自己修練時間を持っていれば、この不名誉で哀しい順位は疾うに返上していたのではないか、と自責をもって重ねて思う。

「忙しい」が言い訳の御旗(みはた)となり、そう言えることが真正「現代人」であり、選ばれた人である名誉・勲章との優位意識となり、更にはそこに自己陶酔することが“陽(ひなた)”の人生かのような世にあって、人間(じんかん)への志ん生の思いはどれほどに通ずるのだろう。
「忙しい」と言うことで、対話を封じ込め、相手の想像(力)を削(そ)ぎ、己が正当、善、真を覆いかぶせようとする傲岸極まりない意識が無意識に働いているように、現職中忙しくしていた私には思える。
心が亡くなる「忙」。いつまで繰り返される「忙」の哀しみ。死に際しての常套表現「ゆっくりお休みください」。

学校は教師も子どもも大忙しの世界である。教科(正しくは担当者の多くの?大人)それぞれが、矜持まばゆいばかりに基礎基本を言い、課外活動等々すべてが人生の基礎素と諭し、かてて加えて子どもたちは塾に、稽古ごとに……。
それに克(か)ってこその、「勝者」現代人との光輝?その道程で落後した子どもと親の悲哀に幾つも出会った。
彼らは、日本での、(更には欧米での?)競争原理世界での敗者であり、憐憫、同情は無用、「眼は人間のマナコである」? そんな“ゆとり”が次代を担う若者をひ弱にする、と指摘するほどの知勇は私にはない。
教師体験だけではなく、私の児童生徒学生時の体験からも、現行の学校在籍期間の自由選択を入れた延長等々、制度・内容の大胆な改革を思う一人だからなおさらである。

私は己が生徒・教師体験から私の言葉で教育を語ろうとするが、その限界にいつも苛(さいな)まれている。
癌をはじめとする難病との闘いを強いられている子どもたち、「特別支援」「養護」との言葉が付せられる学校世界にある子どもたちの教育について、私は概念的観念的でしか言葉を紡げない。
それでも、子どもたちの状況、環境を越えてすべての生の根底に置くべきことは、大人の、社会の受容力、包容力こそが、科学の発達と長寿化、その中での少子化日本を考える要諦ではないかと思っている。
現実を肌で知っている多くの国民を愚弄し、せせら笑っているとしか思えない「一億総活躍社会」との傲慢が、一部で誉めそやされている現代日本。

この批判は「私が」のそれではなく、マスコミ=情報、事実、との時代錯誤そのままに安住していない人たちにとっては何を今更、のことである。 当然、先日の「保育園落ちた日本死ね」発信には、私の周囲の人々を含め大いに快哉(かいさい)の雄叫びを上げた一人である。

言葉は道具である……。
言葉は生を鼓舞する、と同時に剥奪もする。教師はその言葉を生業(なりわい)の基本にしている。とりわけ国語科教師は。(ここでは音楽や美術や体育の言語……については触れない。)
教室での「眼は人間のマナコである」、生徒たちの無言の授業評価はそのときどきに明示される。そのとき終了の音(音楽)が鳴った瞬間に「えっ!もう終わった?」との生徒同士の言葉を耳にすることは、教師冥利に尽きるのではないか。私の場合、33年間で数えるほどしかないが、ある。。
40分なり50分が、彼ら彼女らの内で一瞬に凝縮された快感。恍惚。言葉は道具を超える。言葉が音楽に昇華された瞬間。神の微笑みの直覚。法悦(エクスタシー)。

「噺家は喋っちゃアいけない」
以心伝心、魂・霊性の自覚。不立文字。“ゼロ”を創り出したインドに端を発し、中国・朝鮮を経て日本で大きく開花した禅。
無為自然を説く老子の言う「玄のまた玄」。母胎の無限に思い馳せる永遠、宇宙の心象の魅惑。「玄(げん)牝(ぴん)」。
東洋的見方、考え方……。
しかし、私の薄さゆえの、言葉を重ねる矛盾と限界、そして諦め、だからこそ湧き上がる一層の憧れ。小津安二郎監督『東京物語』の、名画の名画たる由縁、私を惹きつけてやまない理由、また画中原節子と香川京子さん演ずる姉妹の会話にどこか違和感を持った私とも重なる。

国語教科書の常連、中島 敦(1909~1942)の『名人伝』(中国の、弓の名人を主題にした小説)の一節。

――至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなしと。――

この名人の域に達し得た主人公(紀昌)の風貌について、作者は次のよう書く。

「……なんの表情も無い、木偶(でく)のごとく愚者のごとき容貌」と言い、紀昌の旧師に「これでこそ初めて天下の名人だ。」と言わせる。

志ん生をはじめ、6代目圓生(1900~1979)や3代目金馬(1894~1964)など一時代を画した落語家たちに落語を教え、「噺家は喋っちゃアいけない」と言った初代柳家小せんは、過度の廓通いから脳脊髄梅毒症を患い、更に後に白内障で失明し、1919年、36歳で世を去った。
なるほどと思う。
ふと「狂気」との言葉が過ぎりもするが、私が如き人間が人の域にあって思い巡らせる限り、「狂気なくしては生も生活も展開しない」は、甚だ不得要領で、ただ常識に囚われている自身を見るだけである。
そんな私がよくぞ33年間教師が勤まったことだ、とつまるところ家族や多くの他者の恩愛に行き着く。

ほのかな微笑みを浮かべていた娘の死に顔は、どこまでも安らかで、私たち親の前にあった。
そこには一切の言葉は昇華し、ひたすら永遠があった、と私たちには刻まれている。

因みに、5代目古今亭志ん生の次男、63歳で世を去った3代目古今亭志ん朝(1938~2001)が、後10年20年と齢(よわい)を重ねていたら、父とはまた違った意味での他に追従を許さない粋(いき)な噺家になっただろう、と惜しみ愛でる人は、京都人の私もその一人で、多い。
40代で既にその片鱗を見せてはいたが、父志ん生が60歳になって分かって来た「噺家は喋っちゃアいけない」の、絶妙の“間”のある流麗さを極めた噺家に、きっとなったことだろう。本人の眉間のしわが浮かぶ。
その氏の没後10年に刊行された語りと対談集の書名は『ついでに生きてたい』。

江戸、市井人々の生活に係る読み物を読んでいたら「虫売りは 一荷に秋の 野をかつぎ」との川柳が引用されていた。哀しくなるほどの感動が走る。
小さな籠に入れられデパートやスーパー等で陳列され売られている今の世にあって、江戸の昔の天秤棒に載せ売り歩く姿自体に風情を掻き立てられるとは言え、今、私たちに、その虫売りを見て野山に思いを馳せる心の広がりをどれほどに持てるだろう。[五・七・五]に写す技術以前のこととして。
現代人にとっては、引退隠居して初めて持てるほどに遠い郷愁でしかないのかもしれない。文明と生と人に想いが行くが、すでに世界の多くの人々の「マナコ」が語っていることである。
教師在職中以来の久しぶりに、川柳を少し紐解(ひもと)いた。
「花の雨 ねりま(練馬)のあとに 干し大根」「かみなりを まねて腹がけ やつとさせ」等々に印をつけている、そのことが、かろうじて記憶の底にあるようなないような私を見た。
ただ齢を重ねただけの野暮な私が、一層身に沁(し)み入る。

2016年3月11日

香港と日本のアジア小学生交流  その4(最終回)

日韓・アジア教育文化センター
小林聖心女子学院小学校 講師
森本 幸一

CIMG2359 (1024x768)   コルベ神父とコルベ講堂(仁川学院小学校内)

CIMG2358 (1024x768) 再見!二日間の交流を終えたSFA児童と両校の先生方

今回の香港のSt.Francis of Assisi’s Engrish Primary School (SFA)と日本の私立仁川学院小学校との交流は、実際に他国の同世代の子どもたち同士が交流するという大変意義深いことであることを実感した。両国の子どもたちは、活動を通してたがいに片言の英語やアイコンタクト、 身ぶり手ぶりをつかって意思の疎通をはかろうした。
(後に境先生からうかがった話だが、仁川学院のある児童が、この交流を通して英語力の必要性を感じたのだろうか、「先生、英検2級とったほうがいいかな。」と言ったそうだ。)

 この交流が子どもたちの心にどんな影響をもたらしたのか私には定かではないが(ぜひ、両校の先生方にそのようなお話をうかがいたいと思うが…)、しかし、私がこの交流を直に見させていただき、仁川学院の先生方やマギー先生との会話の中で確かな手ごたえを感じたことは確かである。

また、学校教育の現場で、見える学力、数字として見える成果を子どもたちに養うことは大変重要なことではあるが、それをややもすると偏重しがちな昨今である。しかし、学校内ではいじめや不登校、社会では残忍な殺人、ISによるテロ、国家間の紛争、核武装などの信頼を築けないがための武力の誇示など、子どもたちが全ての人たちへの愛の心やまなざしを培っていくことに影を落とす出来事は数え上げればきりがない。私も一教師として悩みの多い一人ではあるが、しかし、こんな時代だからこそ子どもたちの心に信頼し合う大切さを実感し、それに向けて進んでいこうとする意志を育てていくことは大変重要なことであると思う。そういう意味でも、この香港と日本の子どもたちの交流は、アジアの子どもたちが互いに心を通わすことのできる仲間だと実感できる貴重な交流であったと思う。

仁川学院、SFA両校の共通の聖人フランシスコは、太陽・月・風・水・火・空気・大地を「兄弟姉妹」と呼び、その自然の中で神の愛に気づき、そして小鳥に向かって説教したという話もあるが、これら地球上の自然の中で生きるわれわれ、とりわけ教育に携わる者としては特に子どもたちが、人を含めたこの地球上のさまざまなものからの愛に気づき、たがいに愛と信頼の心で結ばれることを願ってやまない。

仁川学院とSFAの交流がこれからも続いていくよう、北宋の蘇軾が「水調歌頭」で仲秋の名月を観て歌っているように(「但願人長久 千里共嬋娟」)、私も今夜は寒月を愛で、両校の絆が深まるよう願いたいと思う。

井嶋先生を中心とした十数年に及ぶ日韓・アジア教育文化センターの繋がりがこの交流を実現させたことは大変喜ばしいことで、私もその一役を担えて、大変光栄に思っている。

 

 

2016年3月3日

香港と日本のアジア小学生交流  その3

日韓・アジア教育文化センター
小林聖心女子学院小学校 講師
森本 幸一

 CIMG2370 (1024x768)     柔道着に着替えて「はい! ポーズ」

詩の説明をするマギー先生 (1024x768)     詞の説明をするマギー先生

送られたカードをみる香港児童 (1024x768)     プレゼントされたカードを見るSFA児童

 

 

11月27日金曜日。2日目も北風の吹くとても寒い日でしたが晴天。SFA児童、先生方全員が健康で交流開始。

まず始めは、小学校がちょうど避難訓練のため中学高等学校図書館の茶室で、SFA児童全員が順番に柔道着に着替え、模造の日本刀や木刀をさし、侍(さむらい)のようないでたちで記念撮影をするという奇抜なアイディアを考えてくださっていた。
立派な「書」が飾られている図書館を通り、二階の畳敷きの茶室へ靴をぬいで入った。そこでまず最初に前川先生から、茶室の由来や、茶室の入り口である「躙(にじ)り口」は、わざと狭くして刀を差して入れなくしていることなどの茶室の歴史や、日本刀の話など日本の歴史、文化に触れていただいた。

その後茶室で襖(ふすま)を隔てて男女に分かれ、男子は前川先生と奥野先生が、女子は境先生が一人ひとり柔道着に着替えていくお手伝いをしてくださった。私の予想以上に子ども達はとても興味深そうで、真剣そのもの。写真撮影の時は模造の日本刀や木刀を持って構え、侍になり、映画俳優のようにポーズをとっていた。さらに劉校長先生や黎主任、翁先生も侍のいで立ちで記念撮影をして大いに盛り上がった。
一方、マギー先生は、茶室での行儀作法を子どもたちに教えていただいていたようで、時々興奮気味のみんなを落ち着かせてくださった。さすが、マギー先生だ。

次は体育館へ移動し、仁川学院5年生の児童とSFA児童全員で日本人なら誰でも知っているであろう「ラジオ体操第一」をするという企画。まず、最初に仁川学院の児童にお手本を見せてもらった。体操隊形に開くその行動や掛け声は溌剌とし、きびきびとしていて素晴らしかった。そして、仁川学院の児童がグループごとにSFAの児童に教えてあげ、最後に全員でラジオ体操第一をした。

その後、5年生の教室(オープンスペース)で香港の児童が広東語で「詞」の暗誦を披露し、それをマギー先生が解説。(その「詞」について後日、マギー先生にうかがったところ北宋時代の蘇軾が11世紀後半に仲秋の名月を歌った詞「水調歌頭」だそうだ。日本文化とのつながりを感じた。)

最後に両校の児童が互いのプレゼントやカードを交換した。二日間という短い交流だったが、昨日、最初に出会った時と比べると随分と打ち解け合い、互いに言葉を交わし、仁川学院とSFAの交流、いや日本と香港の児童の交流が終わりをつげた。

思うに、仁川学院が今回SFAとの交流で考えてくださった交流のプログラムは、はっきり言って今様のものではないが、どれ一つをとっても日本の小学校教育で大切にしてきた重要な伝統的要素を含んでいて、私にとって改めて小学校教育を考える指針をしめしていただいた、と感じた。また、SFAの児童、先生方も異文化をものともせず、旺盛な好奇心で体験していただいたことによって、この交流がより一層充実したものとなったと確信した。

 

 

 

2016年2月19日

故 郷・望 郷 [Ⅲ] 日本と言う故郷

井嶋 悠

私は私の母国日本という故郷(ふるさと)に心が向かう。
そこには、老いを迎えた自然もあるのだろうが、娘の死、それに係る学校・教師、またそこに33年間係わって来た私への意識的働き掛け、強い人為がある。だから教師に高い自負を持っている人々は、私を疑問に思い、屈折を思い非難的に言うのだろう。しかし、私は屈折を人間的営為、ととらえている。

私は日本を美しいと想う。その自然、街、和装、和食、和建築、そして人々の心……。
と言っても唯我独尊的に日本を唱える国粋主義者でもなく復古主義者でもない。韓国の、中国の、東南アジアの、欧米のそれらも美しいと思う。(中南米、西アジア、アフリカ…は行ったことがないので分からないが、映像等からやはりそれぞれに美しいと思う。当たり前のことだが。)その上で、日本が故郷の私は、日本が(「は」ではなく)美しいと思う。遥か原始古代から黙々とひたすら続いて来たその結果の一人としての私の、自然に受け継いで来た心性、ふと脳裏を過(よ)ぎる幾つかの心象。
だからこそ、人生内省の時機を得た今、晩稲(おくて)甚だしいながら、日本に、いぶかしく、苛立つことが多い。古今東西繰り返される老いの癇癪(かんしゃく)?繰り言?そうなのだろう。それでも、些少とは言えこれまでに蓄えた「知識」が、「智慧」としての感性と言葉に近づいたかと思う私に素直でありたいと思う。
それが、折々に見掛ける、「老い」と言う“印籠”を突き出しての傲慢、独り善がりと同じ穴のムジナとの後ろ指を指されないように。中高校「教師」の33年間が染みついているからなおさらである。

私の生後10日目、1945年9月2日、降伏文書署名。太平洋戦争の敗北(無条件降伏)による終戦。それから71年経つ。1世紀100年まで後29年。まだ29年?もう29年?或いはやっと29年?………
日本は世界の先進国で、世界のリーダーを自負し自任する。先人の偉大さと勤勉さ。しかしその先人が目指した近代日本とはこれなのだろうか、と併せて思う私もいる。癇癪の、繰り言の源泉である。
その具体的事象のことは、これまでに幾つも投稿して来たので繰り返さないが、今回は昨年から今年にかけての私にとっての幾つかの「!?!?」事象を並べる。
『故郷・望郷[Ⅰ]』で引用した、二宮尊徳の「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」の、政治と経済を合せた私なりの「道徳」確認のためにも。

「!?!?」とするのは、そこに私の複雑な思いが絡み合っていてうまく表現できないからだが、敢えて言葉にすれば「何で!?」で、根柢に在るのは拒絶的な私の心である。もちろんそれは自省があってのことである。
この「何で」、『新明解国語辞典』(2003年 三省堂)のには次のように記されている。
共感できるので引用する。
因みに、『大阪ことば事典』(講談社学術文庫)には「なぜ。何ゆえ。」とあるだけである。

――どんな理由が有ってそうする(である)かを確かめたり、疑問に思ったりすることを表わす。

【沖縄からの「!?!?」】

日本は、以前「アメリカが風邪をひけば日本もひく」くらいの冷笑ですんでいたが、昨今では「結核で死ぬ」までと痛罵されるほどのアメリカ隷属の独立国家である。
それは、太平洋戦争アメリカ軍本土上陸の防波堤を、戦後27年も経ってのアメリカから返還を、在日米軍基地面積の7割を、「思いやり予算」年間約1900億円を、強いられている沖縄に集約的に顕在する。
私は、これまでの出会い、中でも教職最後の10年間のインターナショナルスクールとの協働校での奉職で善きアメリカ、アメリカ人を知る幸いを得たからなおのこと、政府の、アメリカと言う虎の威を借りた「国際社会」の平和貢献発言に、どれほどの信頼があるというのだろうか、と思う。そもそも政府が言う「国際社会」の吟味が必要だが省略する。
アメリカが招いた有事に在日米軍基地は当然攻撃対象になるはずで、それらの決意なくしては国際社会の一員ではないとの意思表示と言うことなのだろうか。
沖縄経済は、米軍あっての経済と言われて来たが、今はそこから脱却しているとも言われる。もしそうならば、脱却への道筋を創った沖縄の人々の心身の労を私(たち)はどれほどに承知しているだろうか、と自責する。そして今、普天間基地の辺野古移設での沖縄県と政府の対立は激しさを増している。
昨年の沖縄返還記念日で、挨拶を終えて下がる首相に、参加者の一部から「帰れっ!」が浴びせられた。そこに沖縄人の真情を見るのは、政治経済を理解できていない、或いは他県居住者の寝言なのだろうか。
それとも沖縄は日本の大国進化に貢献しているのだから名誉と思い忍従せよということなのだろうか。沖縄の哀しみは私たち日本人すべての哀しみなのではないか。

【中学入試の変化報道からの「!?!?」】

これは、私の経験からの国語教科に関してである。尚、ここでは一応大学進学を前提にしている。
2016年度入学試験で、思考力重視の傾向になったとのテレビ報道を観た。それは首都圏私立中学校管理職とその変化について解説する首都圏大手塾の管理職人物の談話で構成されていた。そこでは、各段階学校の心ある教師が以前から指摘していた思考力、表現力に係ることなどに触れる良心もなく登場した管理職者たちは、時代の反映として至極当然のように言っていた。

「教育は私学から」とのフレーズは、私学関係組織等でよく見掛けるからなおのこと、非常な違和感を覚え、同時に、学校教育の現状が象徴的に表れているように、元私学教員の私には思える。
これは、中学校教師が小学校国語教育を、高校教師が中学校国語教育を、大学教師が高校国語教育を、どのような基準で、どれほど具体的に把握し、検討し、それぞれの学校が掲げる国語教育目標と課程に立ち、その結果導き出されたどのような国語学力を前提に入試問題を作成しているのだろう、との自照自省からの違和感である。
多くは、積年の経験からの“勘”に近い、言ってみれば職人的(本来のあの魅惑的な職人の方々に何とも失礼な表現であるが)な、主観的なそれではないか。そして、ここにも教師の傲慢があるように思えるのは、やはり私の独善傲慢なのだろう。
塾には補習塾と進学塾がある。基本的に、後者は学校授業に差し支えない、或いは物足りなさを思っている学力所持者が対象で、先の報道に登場したのは、その方で、学校は「有名」私学である。

作成された入試問題を塾通学なしに解答できる生徒はどれほどいるだろうか。塾教育あってこその入試の現実、事実。それは国内だけに留まらない。海外子女教育の現状を国内に生活し帰国子女教育に対面する大人子どもたちそして教師たちは、どれほどに承知し、どのようなホンネを持っているか。これは評論しているのではない。その教師の一人であったのが私の自問自答、自責である。
この塾現実を当然にして必然の自明として語られる現代日本の学校教育。
或る“難関”大学進学実績を誇る地域的、全国的有名中学・高校の生徒のほとんど(例えばかのT大に進学した人を知っている私としては、ほとんどとの使い方は決して大げさではないと思う)は、教科学習は塾にあり、学校授業は塾学習の予習と復習の、他教科の“内職”に充てられていることを、観念的に否定批判するのは易いが、それでいいのだろうか。

私と同世代の数学教育を真摯に考え実践している、或る中高大一貫の伝統私学の数学教師が、もう20年以上前に嘆いていた内職現状が思い出され、最初の奉職校で優秀な生徒が、某有名大学に入学し、後輩たちに語り掛けた「入試とは関係のない教科の授業も、先生の話も、入試に役立っていた」との話は、今、どのように受け止められるのだろうか。

塾在りてこその進学、教育に疑問を投げ掛ける或る私立中学・高校は、授業方法・内容に新たな取り組みを重ねているが、その担い手の現場教員の「基礎学力」の無さの嘆きは、どう受け止めれば良いのだろうか。教師力の不足で片付くことなのだろうか。

思考と表現を問う「小論文」で、大学教育とは何かを問われるかのような多くの知識が要求され、それを良しとする一方で、型式化の弊害が指摘され、何年経つのだろう?

大学入学後の学生に、大学教員はどのような「表現と理解と言語事項」(国語(科)教育の本質)教育を実施し、社会に送り出そうとしているのだろう?
その大学教員世界での階層化、峻別化はしばしば耳にするが、“一体”の取り組みはあるのだろうか。

関西の世間的に言えば偏差値の低い或る私立大学で、日本語教育の視点、方法を採り入れた国語母語者向けの表現と読解教材を開発し、必修講座として実施していたが、他にそのような取り組みをしている大学はどれほどあるだろうか。

公立校学費の低額が徐々に崩れる中、塾に掛かる教育費と諸物価高騰、そして都市圏と地方の塾の質量での格差、「子どもの貧困」の激増。そのことで「母子家庭・父子家庭」が背景に挙げられ、中には倫理問題さえ言う人もあるが、私からすれば「木に竹を接ぐ」感がある。
これも、やはり私の寝言なのだろう。

今年、18歳選挙権時代の最初の選挙がある。高校生が政治を、政治家を考える千載一遇の機会だ。
もちろん政治家に限ったことではないが、ここでは国を左右するほどの権力を持つ政治家に限定する。当然政治家すべてを指しているわけではないが、与野党共々、権力に麻痺した或いは権力を濫用するかのような、功績を自身のことだけで得々と語る政治家、自身の考え方と合わないと抑圧、切り捨てようと法令等立案に腐心する政治家、国・地域の代表であることを選民権威意識と取り違えた不勉強の浅薄な政治家、自省もなく批判することで自身に陶酔する政治家、大義名分を言い国内外で税金を濫用する政治家等が、非常に増えていると思わざるを得ない現在、若い人が自身の敬愛する人々と学習し、瑞々しい感性を大いに発信して欲しい。
更にはその学習過程で、発言を撤回すれば事足れりとの言葉への軽視の厚顔無恥と日本の伝統に色濃く残る「言霊」観と国際社会また現代についても自問自答して欲しいと思う。
そうすることで、20歳以上の若者たちに先輩の意地、自然な自省が生まれ、それがいずれ確かな世代交代、更には老人退却の好循環につながるように思える。

先日、北朝鮮がミサイルを発射した。北朝鮮が非難されて然るべきだが、アメリカやロシアや中国等の核保有国に非難する資格(もっと強い言葉で言えば権利?)があるのだろうか、今もって私の中で解決していない。そして被爆国の母国日本が、そのアメリカに絶対的隷属する現実。
こんな私の感覚も「経済なき道徳」の「寝言」なのだろうか。

「一将功成りて万骨枯る」は、教育・教師世界にもある。人の性(さが)、業では済まされない。
或る人格陶冶にして確かな人生を築いている60代の知人が言っていた。「わしが、わしが、のワシ族。能もないのに爪隠す?タカ族、との会話は疲れる」と。私もそういう族とは何人も出会って来た。今、やっとそういう人たちが寂しい人たちであると明確に言えるようになった。
時間の積み重ね(加齢)に無駄はない。亀の甲より年の功。他山の石。

南北に長い列島国日本。国土の6割が山岳山林の居住面積では小さな日本。長寿化と少子化。小国寡民が持つ可能性、心安らかな郷(さと)の国。足るを知る、その心の重さは歴史が何度も証(あか)している。
何が前進で、何が後退なのか、日本の考えはどうなのか。その時、様々な人々の「望郷」に改めて思い及ぼすことは、確かな人間的営為ではないかと思う。もっと言えば、今私たちが立っている地は、数限りない人々の望郷の「悲・哀・愛(かなしみ)」の涙があってこそなのではないか。

日本が真の先進国、文明国として世界の誘導役(リーダー)と公認される名誉が実感できる日があることを、「戦後」は未だ終わっていないと思う一人の私は想い巡らせている。

 

2016年1月31日

香港と日本のアジア小学生交流  その2

日韓・アジア教育文化センター
小林聖心女子学院小学校 講師
森本 幸一

 初めての掃除に励む香港の小学生

コルベ講堂での祈り

SFA児童代表から記念の絵の贈呈―SFA劉校長(左)、仁川学院小児玉教頭(右)―

前日より急に寒くなった11月26日木曜日、同じフランシスコ会の香港SFAと日本仁川学院小学校の交流第一日目がいよいよ始まった。仁川学院中学高等学校グラウンドにバスが到着したという連絡を受けそこに向かった。

香港SFAの児童16名(男子10名、女子6名)、劉校長先生、黎主任、翁先生、マギー梁安玉先生を仁川学院の奥野先生とともに出迎えた。マギー先生がおられ、私は少し緊張の和らぐのを感じた。  健康チェックの検温で誰もが健康で全員が交流に参加。最初に仁川学院小学校の児玉教頭より素晴らしい英語での挨拶があり、全員が大きな拍手。香港からは劉校長から日本語での心温まる挨拶。互いが理解し合おうとする熱意が感じられた。そして、児童が描いた絵を児玉教頭に贈呈。この児童は、大の日本フアンだそうで、後で本人に日本の何が好きかと聞くと「どらえもん。」とのこと。ほほえましくなった。

おいしいカレー(お替りあり)とデザートをいただいた後、5年生児童と交流開始。通訳は日本語を英語に訳すのは仁川学院境先生、日本語を英語、広東語に訳すのはマギー先生だ。
香港の児童1人につき仁川学院の児童が4~5名で自己紹介。あまり話が進まないグループも少しずつ打ち解け、その後コルベ講堂(ナチスのアウシュビッツ収容所で身代わりになり餓死刑にされたフランシスコ会の聖人で、日本に布教活動のため2度来日したポーランド人コルベ神父に因んでつけられた)でお祈りと「ブラザーサン シスタームーン」の日本語と英語でのコーラス。 フランシスコ会ならではの重厚さだった。
(コルベ講堂から退出する際、劉校長がパイプオルガンに興味をしめされ演奏。その見事さに私は勿論、仁川学院の先生方はびっくり。実に見事な演奏だった。)

教室に戻りホームルームの後、さまざまなゲーム。楽しそう。その後お掃除(その場の責任者の前川先生から、仁川学院でのお掃除の意義、「心磨き、謙虚、気づき、感動、感謝」をうかがい、私も納得)。

仁川学院の児童が真剣にSFAの児童に教えようとしていた姿がほほえましく感じられた。
香港の子どもたちにはこのようなお掃除習慣がないそうだが、ある児童は「香港に帰ったらやってみよう。」と言ったそうだ。

こうして交流第一日目が終了した。

SFA児童、先生方の何事に対しても真摯かつ誠実に交流される姿勢と、仁川学院児童、先生方、事務の方などの丁寧に心を込めた対応が見事にとけ合うことによって、この交流が日本と香港のフランシスコ会児童、先生方の感動の場となっていった。

2016年1月31日

香港と日本のアジア小学生交流    その1

以下は、昨年11月に、私たち「日韓・アジア教育文化センター」がお手伝いし実施された、香港の小学校と日本の小学校間の小学生交流に係 る、本センター委員・森本 幸一先生の報告の第1回です。 尚、その簡単な紹介は、昨年12月14日のブログで、2015年の本センター報告として掲載しました。併せて読んでいただければ喜びです。 (井嶋)

小学校は以下です。

香港  St Francis of Assisi’s English Primary School http://www.sfaeps.edu.hk/ ]

日本  仁川学院小学校(兵庫県西宮市)[http://www.nigawa.ac.jp/elementary/

日韓・アジア教育文化センター
小林聖心女子学院小学校
講師 森本 幸一

    小鳥に話しかける聖フランシスコ(仁川学院小学校)

2007年第4回日韓アジア教育国際会議が香港で開かれてから8年。井嶋悠先生が、6月下旬に、「香港日本語教育研究会長」のマギー梁安玉先生から香港のアッシジの聖フランシスコ英文小学校(St.Francis of Assisi’s English Primary School、今後「SFA」と略称する)の小学生男女が日本に研修旅行に関西へ来るので、日本のカトリック私立小学校と交流できないかと打診があった。

私の勤務校である兵庫県宝塚市にある小林聖心女子学院は女子校なので引き受けることができず、どこか引き受けてくれる学校はないかと思案した。その時、すぐ頭に浮かんだのは、同じフランシスコ会の西宮市にある仁川学院小学校だ。
実は私は、本校で毎年行われるキリスト誕生を全校でお祝いするクリスマス会において5年生全体で聖フランシスコの劇をした。そしてその翌年、仁川カトリック教会主催の聖フランシスコの聖地アッシジ巡礼の旅に参加させていただいたことがあり、フランシスコ会の小学校ならきっと仁川学院が相応しいと思ったのである。
SFA研修旅行は11月下旬という、中学校受験を控える私立小学校にとって交流には大変難しい時期であるが、校長先生にお願いしてみた。 直接学校にうかがいお話しさせていただいた際、同席してくださった教務主任の平石先生から、この交流に対しての関心と同時に、アジアの国と交流する重要性をも話されたり、交流日程を一日と限らず二日でもよいことや、双方の学校とのやり取りを英語ですすめてはどうかという意向もうかがった。
この大変力強い提案に私は、これからのさまざまな交流プランにおける詰めが必要だが、この香港と日本の小学生交流が実現されるだろうという可能性が大きく広がると感じた。 そして、平石先生が7月中にSFAと連絡をとりながら交流プランの大筋を決め、9月からは奥野先生が窓口となって交流プランを詰めていただいた。

その11月26日(木)、27日(金)の交流プラン(原文が英文なのでそのまま表記)は以下の通りである。

[programmes for 26th/27th]

26th(11:30~15:20)
11:30~12:50 lunch(curry with rice);tour of school grounds (1F/2F,library,shrine, gymnasium,schoolyard etc.)
12:55~13:15 short interchange(between your students and us/3F)
13:20~13:55 Prayer and chorus”Brother Sun and Sister Moon”
14:00~14:30 Homeroom-period for 5th-grade/classroom cleaning
14:35~15:20 Public service of thanksgiving(schoolyard cleaning)

27th(09:20~11:55)
09:20~10:45 Experience of Japanese-style room(Japanese-teahouse)and fitting clothes of samurai,followed by a photograph;tour of high-school and junior high-school
10:50~11:30 Your performance(if you have one);course of Japanese-radio gymnasticsfor you
11:35~11:55 Presentation of commemorative large square cards to you

また、交流に際して奥野先生は、病気予防対策の交流前検温や、昼食のアレルギー調査、大型バスの駐車場等々細やかな対応をしていただき、いよいよ実現される運びとなった。

2016年1月8日

“豊かさ”について再考する最後の?機会 2016年? ~今こそエリートはエリートの自覚を~

井嶋 悠

昨年末、『日韓・アジア教育文化センター』を回顧し、極私的感慨を投稿した。
今回は、やはりセンターを回顧し、年始の極私的な感慨とそこからの願いを投稿する。

日本社会を動かしている中枢的人物はエリートである。
念のために国語辞典で語義を確認する。『日本国語大辞典』(小学館)より引用。

「ある社会において、将来その社会の知的指導者層の一人となりうるような優秀な資質、力があると認められた者。また、その結果として社会的に高い地位を与えられて、指導的な役割を果たしている人。選良。」

形容語(例:美しい)と抽象語(例:教育)は、使った人の価値観、人生観に関わるがゆえに、内容の吟味を明確にしておかないと他者と齟齬を来たし、苛立ち、対立が生じ、ほぞを噛むことになる。それは自身を生きることにあってとても寂しい。
国語科教師なら、授業で当然それらの内容吟味をしなくてはならないが、そんな物理的、精神的余裕はない。しきりに言われる教師の多忙もあるだろうが、その前に社会自体が高速化、大量知識=優秀化なのだから、そこで立ち止まろうものなら「優秀な」生徒から非難の矢が飛んでくる。「先生、それは生徒個人の中ですべきことなんですから、先に進んでください。試験も間近なんですから」と。周りの生徒も「あいつが言うんだから」と無表情に、何人かは表向き同意で聞き流す。だから、多くの教師は世の大勢を物差しに、多数決の合理、時間がない、と言い聞かせ先に進む。

上記引用で言えば、「知的」「指導者・指導的」「優秀な」「力」「高い」で、とりわけ今回の願いで言えば「知」「指導」「優秀」であり、私の慚愧(ざんき)の言葉で言えば、「教育・学校」であり「学力」であり「男女の文化相対社会」である。
ただ、中には「読解」(得心行く理解)と知識の多少の関係に、そこはかとない不安定を直覚している、非常に稀少な生徒もいる。そういう生徒は概ね日を置いて、か何か別のことで訪ねて来た時に、個別に質問する。教師の方も喜色派と鬱鬱派に分かれる。前者は少ない。その時のよくある対応の言葉は「今、忙しいから」。
私は、そういう質問をぶつける生徒に、静かな積極性の優秀さを思う。相手の話を、しかも眼を見据えてじっと聞いていながら、応えまた反論するとき、あの聴く姿勢は傍若無人的演技であったことが露呈する、そんな対話を生理的に忌避したい私だからなおさらである。
限られた出会いだが、高学歴と言うエリートにそれが多いのはなぜなのだろう。

国語科教育の本質を「国語科教育は畢竟言語の教育」との論説に立てば、それを泰然自若とでき、且つ生徒の眼の輝きを体感することができる学校環境は、非常に限られている。私が知る一例では、1学期に1冊、作品を決めての精読授業をしている高校がある。いわゆる教科書はない。教師は船頭[水先案内人]に徹する。
そこには、自由を標榜する少人数私学に異動した教師が、己が構想と理念からの修学旅行の実現に歓喜するという、“違った”独善はない。私は船頭教師にプロ教師を視る。

「国語科教育は畢竟言語の教育」には、「国語科教育」と「日本語教育」の、また「国内学校教育」と「海外・帰国子女教育」「外国人子女教育」との相互啓発があると思っている。だから、そういう子女の本質的な受け入れ校に、この啓発実践が多い。しかし、一方で、系列大学を持つ大学教師には不評も多い。理由は「基礎・基本」がない、知識がないである。その大学教師は、高校での「基礎・基本」をどう考え、どのような入学試験を作成し、入学後に自身はどのような教育(講義)をしようとしているのか。
要は「学力観」の問題である。同系列組織にあっても意思疎通はほとんどできない、とささやかな類似体験から思う。なぜか。

そんな気難しい?しかも専門研究性もなく、在職私学中高校数校、勤務合計33年間の内、数年間の惨烈極まりない期間を除けば、周囲の人々からすればただただお気楽な教師にしか映らなかったであろう私ではあるが、或いはだから? 現代日本社会のいびつさ、ゆがみの元凶は「優秀な知」をもって「社会の知的指導者層」であるエリートに、或いはエリートの語義の閉鎖化、矮小化、形骸化に、あるのではとの思いに到る。と言えば、エリートは私の開き直りと糾弾するだろうが。
私をこのように誘導する後ろには、そのエリートたち幾人かの出会いでの失望、不快また生まれ育ったエリート親族環境での劣等感(私は準“難関”私立大学出身)が、大いに働いているのだろう。これは、私を「屈折した人間」と直接間接に揶揄した人々の批評ともつながるのかもしれない。

【備考】
ところで「エリート」はフランス語である。以下は、フランス語(大学での第2外国語はドイツ語)も、フランスの社会も教育もほとんど知らない私の、ちょっとした体験からの思い付きの備考である。

インターナショナルスクールとの併設協働校で、そのインター校では、全人教育を掲げ、欧米学校文化圏では多く採用されている「国際バカロレア」(略称:英語化の頭文字からIB。尚「バカロレア」とはフランスの大学入試資格の意で同じくフランス語である)プログラム(幼稚園もしくは小学校から高校終了までの一貫プログラム)を実施していて、そこの「上級日本語」(高校2年3年生対象の2年間継続選択科目)を担当したことがある。
生徒一人一人が、様々なテーマに関心を向け、調べ、話し合い、表現(話す・書く)する。教師は船頭[水先案内人]である。
初めての経験で、西村俊一氏等による著『国際的学力の探求』(1989年・創友社)や『国際バカロレアの研究』(1998年・東京学芸大学)などでその概要や実践内容を学び、実践し、今では顧みられることもないあの「(横断的)総合的学習」と相通じているのではとの思いを持ったり、後には海外在留子女への通信教育での実践も経験した。
ここ10年程であろうか、日本の学校でのIBプログラム導入が言われている。私の場合文系しか理解できないが、「表現と読解と言語事項」の国語科教育の理念を考えれば導入は然りだと思う。しかし、これまで日本がたどって来た欧米偏愛指向=日本後進文化劣等感と、今日のカネ・モノ文化文明を上善とする限り、理念だけに終わるように思う。なぜか。学校組織(体制)と教師意識と、その背景であり土台である日本社会の変革、それもかなり根源(ラディカル)的(な)変革、があってこそ実現できると考えられるから。そこで求められることは、官僚的、権威的保守性に堕していない確かなエリートの度量と実行力である。

 

 

エリートと、とりわけ政財界で、言われる多くの出身大学は東大と京大で、その創立理念からも東大が多い。いわんや、対東大意識があるはずの昨今の京大では、今や入学者が複雑な?笑みを浮かべて「東大に行けなかったから京大に来た」と言う時代で、京大気質を大事にする教師たちを愕然、呆然とさせているそうだからなおさらであろう。
その東大在籍学生は、14,000人ほどで、全国の高校生総数(約356万人、因みに25年前は579万人)の約0,0039%。正に“選ばれた”若者で、先の辞書にある「選良」である。なお、おもしろいことに「選良」には代議士との意味もある。
だから、東大を一つの“頂点”とするピラミッド型大学構図では、頂点及びその周辺の大学在籍・出身者で、彼ら/彼女らの考える“正道”とは違う世界に向かう者に対して、マスコミは必ず大学名を出す。ましてや犯罪者となると一般の云十倍の勢いとなる。“裾野”の大学の場合、よほどでないと大学名は出さない。一つの親切心なのだろうか……。
エリートの宿命?とも言えなくもないが、そうではなくて、純粋に描くエリート像と現実の乖離、「知」と「優秀」の意味での齟齬、事ある毎に自身を「東大卒」と強調するような愚人性への苛立ち、更には親の年収1000万円以上が過半数、2000万円以上もあちこちに、の東大合格の歪(いびつ)さに苦笑するしかないほどの現実、そういったことへの複合的表われなのではないか。
「エリート意識」が、批判的に使われるゆえんだろう。

開き直りと言われても、真のエリートの自覚、自問自省こそが日本を立て直すとの考え方は、現実的にして真っ当であると思う。
ただ危惧されることがある。確かな内実を持ち得た者の自然と言えばそれまでなのだが、私が出会った東大・京大卒で人格的にも優秀な人物は、得てして私が言う混濁社会とは一線を画していることが多い。飄然と生きる姿が合うのだ。
それでも栄辱を知った賢人(エリート)として、時機を見極め、敢えて一線を越え「知」と「力」を一層提示して欲しいと望む私がいる。もう対症療法の限界を越えているのだから。その時、『センター』の過去と現在の事実と発信が少しでも重なることになるようになればどれほど幸いなことであろう。

私たち大人は、老人は、自然界の樹々の新芽が枯葉を押し出すように、若者、幼い子どもと入れ替わる。長寿化での高齢者社会福祉は私自身のこととしてあり、不安と恐怖は重くのしかかり、安寧な死を願う日々が増えているが、先ずは次代を担う子ども、若者である。私たち老いを迎えた大人が意図して2番手で有終を飾ろうとする、その制御的意思が私たちの安堵となる、その自然循環に思い馳せる私もいる。主役(シテ)と脇役(ワキ)の相乗の美。

最後に、私の総論の各論の一つとして『子どもの貧困』を、メモ的ではあるが採り上げる。
そこでは、いかに社会構造とその土壌にはびこっている大人の意識の変革が求められているか、そして『子どもの貧困』は『社会の貧困』であり『大人の貧困』であることが浮かび上がって来る。
この負の連鎖を断ち切ることなしに、日本が先進国、文明国と言うにはあまりにおこがましいし、未来は戦争の道、いつか来た道、に自縄自縛的に追い込んでしまうに思えてならない。
要領の良い!エリートはその時そこにいない……などと言うことを繰り返さないためにも。

子どもの貧困は、6人に1人。ここで言う貧困とは、子ども一人での母子或いは父子家庭で、年額170万円(月額14万円)が一つの基準とされている。仕事の選択肢は東京とか大都会に多い。しかし物価高である。ましてや女性の仕事は限られ、待遇も低く、再雇用の道も今もって険しい。更には、離婚等での慰謝料、養育費の実状は不払い、滞りなど実に貧弱で、男優位発想のままが多い現状。
幼い子どもにとって母の不在は、父のそれ以上に負の影響を与える。

衣食住もままならない上に心の拠り所もなく、学業に、将来に可能性を見い出すなど、言葉遊びに過ぎない。政府はその場しのぎの金銭補助を言い、拙劣なスピーチコンテストそのままに低次以下の論法で「一億総活躍社会」を言う。その下ごしらえをするのは、政治家であり、官僚であり、学識者の、エリートではないのか。人間が人間を愚弄する極(きわみ)であることに気づかないのだろうか。
その時、与党女性議員は何を考え、何をしているのだろう。

高校進学率98%強となり高校義務教育化も言われるが、家庭環境での進学率の違いに、また残る2%の意味するところに、私はどれほど心を使って来たかと自省する。しかし、これも私のお気楽教師の裏付けなのだろうか。
多額の国税を使っての外遊(本人、周囲はトップ外交と言う)、各国・地域への数十億数百億円単位での無償有償援助、福祉財源不足を御旗にしての増税、資産調査を意図した国民皆登録制度等々。しかも国の借金1000兆円(と言われても想像を越えて実感は湧かないが、とにかくあのギリシャなど足元にも及ばない借金大国らしい)を越えながらも、有識者(エリート)たちは「あれは借金ではない借金」と、わけの分からないことを言う。
末期症状からの奇跡的再生はあるのだろうか。それを担うのもエリートである。

日本を導く政治家をはじめ各界のエリートたちは、学力低下、非行の増加、先進国最悪の自殺大国(2011年以降の少中高生で言えば、将来を悲観しての自殺は5%となり、いじめの2%を越えている)、更にはアメリカを宗主国と崇める駐日本アメリカ大使ケネディ氏の「日本は、仕事をすることが貧困率を下げることにならない唯一の国」との発言はどう受け止めているのだろう。

国連の158ヶ国を対象とした2015年の『世界幸福度ランキング』で46位(アジア地域では、シンガポールが24位、タイが34位、台湾が38位、韓国が47位、香港が72位、中国が84位)、

同じく国連が行っている人間開発指数[平均寿命、教育、成人識字率、就学率、GPD等の指数]からの2015年ランキングでは17位(昨年は10位・アジア地域では9位シンガポール、15位香港、韓国)、
をどう見るのであろうか。

幸福度を数値化することのナンセンスを言い、一つの参考にはなりますが、とお茶を濁すのだろうか。
また、
やはり国連から発表された、経済成長率と言う旧来の発想ではなく、生産した資本、人的資本、天然資本、健康資本からの人の総合的豊かさ調査(2008年)では、日本の断然1位を(2位アメリカ、アジア地域では17位中国、19位インド)、内容、視点から離れて欣喜雀躍する愚行を犯すのだろうか。

遅過ぎるとの懸念もなくはないが、日本も学校教育の在り方(教育内容、期間、学力観、“あれもこれも”ではなく“あれとこれ”の余裕等)ついて、男女共存があっての社会であることについて、エリートはもちろん、すべての人間の共通課題として自省、自覚しなくてはならない時期に来ていると思う。長寿化と少子化の今だからこそ。
中でも日本の繁栄はオレタチワタシタチが創り上げて来たと自負する中年以上の男性の、と同時に女性も…、てらいのない謙虚な自省心で。

その2016年は申年(さるどし)である。(「申」を「猿」とした経緯等は不明とのこと)
私たち人類の親戚である猿にもいろいろな種類がある。
風格偉大で神経質なゴリラ、賢明なチンパンジー、個と集団の優等生ニホンザル。泰然と構え老子を彷彿とさせる森の哲人オランウータン……。
それぞれに実に愛苦しく上下などあろうはずもないが、私はオランウータンに魅かれ、憧れる。日本の指南役に、とも思ったりする。

ところで、「申」は稲妻の走る姿を表わした象形文字で、天の神の意志を表わすとのこと。(「神」は「示す偏+申す」)
なかなか意味深長な2016年のように思えるのだが………。

 

2015年11月28日

叙情があっての叙事を想う ―初めに叙事(言葉)あり、の現代日本の息苦しさ―

井嶋 悠

11月9日投稿のブログで、八甲田山、八幡平で出会った全山もみじ〔紅葉・黄葉〕で覆われた、その樹々の統合が私たちに迫り来る「秋の気魄」について書き、前回(11月18日)、政治と私の不可解から最後に犬と現代人のことに触れた。 それから2週間経った今、居住地栃木県北部のもみじ期は、そそくさと遠くに去って冬の気配が濃厚になって来た。 かねてから「人間冬眠必要」提案者である私は、(因みに、娘も、心身悪戦苦闘進行中であったこともあってか、苦笑しつつ賛同者であった)、「冬来たりなば、春遠からじ」との心の余裕などなく、冬嫌いの愛犬共々、ストーブの前にまどろむこと多の日々である。

『三夕の歌』の一つ、藤原定家の「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮れ」を借用すれば、「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 鄙(ひな)の我が家の 秋の夕暮れ」である。
そして、私も含め多くの日本人は、『三夕』のもう一つ、西行法師の「心なき 身にもあはれは 知られけり しぎ立つ沢の 秋の夕暮れ」に、「しぎ立つ沢」を眼にしたことがなくとも、その情景をそこはかとなく想像し共感同意する。

「あはれ」「もののあはれ」の秋、晩秋、とりわけその夕暮れ時。 ドボルザークの交響曲『新世界より』の第2楽章『家路』に陶酔し、唱歌『赤とんぼ』の詩[三木露風・作詞]とメロディ[山田 耕筰・作曲]の哀しみ溢れる叙情に心の琴線を震わせる人は多い。もちろん私もその一人である。
「あはれ」の叙情は秋を基本にし、そこには哀しみ、寂しさが自明のように通底する。
しかしこの語は、『萬葉集』の時代からあり、識者は集での「親愛」「賞讃」の意の用法を引き、意味の多様を説明する。「あはれ」語源説の一つに感嘆を表わす「天晴(あっぱ)れ」があることも考えに入れれば、春夏秋冬それぞれにあって然るべきであろう。 しかし、秋の哀しみであり、澄明さに心が向くその強さは他の季節のかなうところではない。

江戸時代の著名な文学研究者・本居宣長は、『源氏物語』を頂点にして日本文芸を基に「もののあはれ」との美意識を編み出し体系化したことで知られるが、文芸は、人が自身を取り巻く人々、自然、社会、森羅万象を見据え、心(想像、感性)を馳せることで成立するのだから、人の生の一切合財が「もの」を表わしている。 しかし、生まれ、かな(悲・哀・愛)しみの生にあって、人は「浮き・憂き世」そのままに幾多の哀しみを自覚し、孤独を思い知らされ、もがき、何かの、誰かの力を借りて何とか昇華し、紆余曲折漸(よ)う漸う生きようとする。 とは言え、「有限」の知情意動物のかなしみ、“無常”に圧倒され、「悲・哀」を直覚することがはるかに多い。だから「愛しみ」に私たちは心躍らせ求め、生きようとする。
これは古今東西多くの人々が言う、そのことへの私の体験からの確信的主観で、だから春夏秋冬を人生になぞらえるとき、秋の気配、それも夕暮れ時の清澄な静けさに身を委ね、寂寥に包まれ、時にそこに耽溺さえするのではないか、と思ったりしている。
それがあっての、八甲田山・八幡平の秋の天の気魄であろうと思う。

このことは、人である限りいずれの文化にあっても、不変にして普遍ではないかと思うのだが、東アジア人の中でも、また知り得た西洋人と比しても、その叙情性が日本人は強いように思える。
感傷的“人種”日本人……。

私は歌謡曲の愛好者ではないが、或る時出会った帰国生徒の父親(海外駐在員)の言葉、「週末、現地周囲から家族を放ったままでと非難を受けながらも、駐在員同士で飲んでいるとき、美空ひばりの『川の流れのように』を聴くと、止めどもなくなく涙が溢れ出るんです」に、海外駐在員経験がないにもかかわらず心激しく揺れ動かされた私があった。

叙事の世界の一方の雄かのような政治の世界が、理念等々「合理」以前のこととして生理的に不適応で、それは33年間事ある毎に教師不適格を痛覚していた背景でもあるのではないか、とも思っている。
続けられたのは、そういう教師が在ることの有効性を、稀少数派とは言え、直接間接に私に発した生徒、保護者、教職員そして家族があってのこと。ことさら言うまでもない。

ここで私が固執する叙情とは、日本の梅雨から夏の風土にある高温多湿のそれではなく、秋の清涼澄明な大気に突き抜け漂う心で、それは私の中に色濃く流れる高温多湿体質を忌避したいとの願望の裏返しであるのかもしれない。近年「泣ける映画(作品)」がごとき、叙情(心)を叙事(事としての言葉)で脅迫、抑え込もうとするかのような摩訶不思議なキャッチフレーズとは真逆にある感覚。 叙情か叙事ではない。叙情と叙事であって、但し叙情あって叙事、との私の生理である。

中高校国語教科書にしばしば登場する近現代を代表する詩人の一人、三好達治(1900~1964)の以下の詩が持つ響きである。

乳母車

母よ――
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花(あじさい)いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり (以下、第2連~第4連、略)

 

甃(いし)のうへ

あわれ花びらながれ
おみなごに花びらながれ
おみなごしめやかに語らいあゆみ
うららかの跫(あし)音 空にながれ
おりふしに瞳をあげて
翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍(いらか)みどりにうるおい
廂(ひさし)々に
風鐸(ふうたく)のすがたしずかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうえ

[引用者注:季節は春であるが、ここにも清澄な叙情が流れている。
「甃」(井戸瓦。敷き瓦)
漢和辞典[大修館書店『漢語林』]での「解字」
―秋はけがれを去り飾るの意。井戸水の清潔を保つために内壁や周囲に敷く瓦。

同じく近代詩を代表する詩人萩原 朔太郎(1886~1942)の詩集『月に吠える』の序で彼は言う。
―詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である。
―すべてのよい叙情詩には、理屈や言葉で説明することの出来ない一種の美感が伴ふ。 これを詩の  にほひといふ。
―私は自分の詩のリズムによって表現する。(略) リズムは以心伝心である。
―詩は言葉以上の言葉である。
―詩を思ふとき、私は人情のいじらしさに自然と涙ぐましくなる。

言うまでもなく私は詩人でもなければ、詩の篤く、熱い読者でもない。神社の狛犬が表わす「あ・うん」に魅かれる元中高校国語科教師(言葉を最も弄する教師)であるがゆえに、上記の詩人の言葉に強く引き入れられる私がいて言葉を借用した。詩の生を想像し。

学校社会は社会全体を映し出す鏡であり、縮図である、との言説に、33年間の中高校学校教員体験から実感として同意している。
しかし、そこには感傷はあっても叙情はない叙事の世界であると、内省自省からとは言え、過言を承知で思う。 そのことが日本の教育の総論/各論での改革で、欧米の教育を最優先する発想の一因なのではないかと思ったりもする。合理と非合理における東西異文化?
1945年を原点に、憲法と教育基本法の遵守と実践を主張する社会意識の高い(強い?)或る教育学研究者の言葉(叙事)に、知として同意しながらも、心の脈動(叙情)と一体化しない「理解」の段階で止まっている、そんな私のもどかしさ。

私の中で突き刺す現代日本社会の鏡・縮図としての「学校社会の叙事優先或いは叙情のない叙事」を、二つ挙げる。

それらは、以下の学校体験(専任教員としての3校)が基盤であり、あくまでもそこからの管見である。
【3校の共通項】
・私立中高一貫教育校(但し、内、2校は女子校、1校は共学校)
・ほぼ全員(生徒・保護者・教員)が大学進学を自明とする
・自由を謳い、国際教育、英語教育、海外帰国子女教育、外国人子女教育を標榜する

見る人によっては羨むイメージを持つかもしれないが……。

大学進学の頂点(極み)東大進学から見えること

東大卒業者(親族も含め)との出会いは多い。しかし、人格的に敬意を表し得る人物は多くない。 かなりの部分で、権威性を、独善性を、閉鎖性を直覚するのだが、本人は無意識化している。そこが「上意識」なのだろうが、その人たちが、創立時の明治時代ではない、現代日本社会の各領域で指導的立場にあることを自他当然としている場面に思い及ぶと末恐ろしい。 彼ら彼女らの自負と偏差値という数字との関係。 1980年代以降「教育の商品化」は止まることを知らない。経済的豊かさが進学を保証するとの図式。塾産業無くして進学なしの異様。 進学者の保護者(特に母親)の会、いわゆる「ママ友」の一つで、東大進学を誇る某私学のそれの、例えば「食事会」に見る虚飾に浸る母親をどう見るのか。 これらの事象(叙事)に、どんな叙情があるのだろうか。少なくとも私には全く分からない。 この事象を悪しとし、無くすための入試方法、学力評価法はあり得ないのだろうか

《補遺》 当時、“やんちゃ”の高校生が集まる学校(男子校で、中学校でのやんちゃ連[社会的呼称は不良或いは非行中学生]が、中学校での進路指導でその高校への進学を奨められると、多くが泣き崩れたと言われていた)の、当該教員(男性)から聞いた事例。
「1年生での自暴自棄もあっての心身壊滅的様相の日々、2年生での連帯意識の芽生えと共同体  作りの上昇志向、3年生での見事なまでの一体化と学校行事等への取り組み、を間の当たりにした感動は比類がない。」と。
彼らを見守り、支えるその教員(たち)の器量を持たない私ではあるが、そこに叙情があっての叙事の素晴らしさを見る。
尚、その学校は世の変化(その内容と良し悪しには今は立ち入らない)からなのか、今は中堅?進学校となっている旨聞いている。

AO入試等の入試方法から見えること

○×式画一的入試方法から、一人一人の個を吸い上げたいとの視点から編み出された、「小論文」「自己推薦」「学校(長)推薦」また「面接」重視の入試方法。
1980年前後から導入された「小論文」、見識ある人々が当初より危惧していた新たな「画一化」が進んでいる。
知識と形式からの論説文表現指導。そこに見る塾産業の競い合い、学校教師を含めた“プロ意識”による自身の「雛型作り」の現状。
国語科教師として生徒の作文鑑賞と指導は、相当の時間と体力を必要とされるが醍醐味でもある。 そんな中での、私の理解さえ及ばない二つの事例。
一つは、某予備校の「上級」小論文講座に見る高度な知識の要求とそのことでの自尊意識形成。
一つは、某高校での、語句選択から方法・内容の微に入り細に至る指導。
そこに在るものは、結果を求めての叙事(担当者は叙情と言うかもしれない)であり、そのことでの進学実績上昇の事実とも併せた教師のカリスマ性?からの指導という名の強制ではないか、と思う。 それとも、ひょっとすると、これは教師と生徒双方の限られた時間にあって他にどんな方法がある?との、身をもっての提言と言うことなのだろうか。
それによって作られた小論文かそうでないか、大学側はどのように判断しているのだろうか。
そして思う。 長寿化社会にあって、大学教育また大学院教育とは一体どうあろうとしているのだろうか、と。

 

上記二つの現実は、海外・帰国子女教育や外国人子女教育とも重なって来る、正に日本を映し出す一面であり、当事者の生徒たちにとって、更には心ある教員にとって、困難極まりない問題でもる。
そこに、かの「英語ペラペラ」が加わる時、それから外れる彼ら彼女らの心中は、多くは「世の中そんなものよ」とは言うが、本音はどうだろうか。 ペラペラの持つ狭隘にして薄っぺらな響きにどれほどの叙情性があるのだろうかと思うし、その用語が一般化している現代日本に寂しさを思うのは老いの身ゆえだろうか。

こんな出会いがあった。台北日本人中学校卒業後入学した生徒。 日本人学校での限られた授業と日常生活で身に着けたわずかな中国語力。しかし、漢文授業で押韻説明の時、その生徒の音読でもたらされたクラス生徒の感嘆と説得力。私が説明すれば叙事の叙事に過ぎないが、その生徒がすることでの叙情からの叙事が持つ力を思う。

先日、都心のいつも多く人が訪れる、或るペットショップ(子犬と子猫)で出会った風景を思い出す。
明るく清潔な、特に広くない店内に設けられた椅子に、凛と背を伸ばし浅く腰掛け、膝には生後数か月くらいであろうか無心に餌をほおばる愛くるしい子犬を置き、手のひらに収まるほどに畳んだハンカチで、瞳の動きから周囲を気にしているのは明らかなのだが、こみ上げてくる涙を抑えきれず拭っていた40代とおぼしき婦人と、彼女が醸し出す清楚な漂い、空間。
横の同年代或いはそれ以上の男性(会話から夫君とは思えなかったが)が、薄っすら微笑みを浮かべて言う「昨日一晩、この子は何も食べなかったんだ…」との言葉が聞こえ、彼女は何度も首をタテに振る。 私はその直後、前を通り過ぎ勝手に想像する。
「昨日、この店で購入した子犬が、環境の変化で一晩何も食べず、心配でたまらない彼女は、医院に行くより購入先に相談に来たのだろう。そして、膝の上で旺盛に食する子犬を見て、安堵、安らぎの喜びの涙がいっときに溢れ出たに違いない」と。
当たり前のように、この子犬の、彼女のような人に飼われることの幸いと犬ならではの慈愛でこれからいつも彼女に寄り添う姿が浮かんで来た。
三好達治の詩に通ずる叙情。確信する。清楚のない叙情はあり得ない、と。だからひたすら清楚を憧憬する。叙情から叙事へ。

私にとって戦後の清楚な女優は誰だろう?と、手元にある「女優ベスト10」(『日本映画ベスト150』文芸春秋編・1989年刊)を観たり、そのベスト10にはないが香川京子さんかなあ等々思ったりもするが、しっくり来ないなどと妄想していたら、先のベスト10の第1位の原節子さんが亡くなったとの報。 映画での彼女に清らかな妖艶さを感じていた一人ではあるが、清楚とは違うようにも思え。 そのとき、彼女の突然の引退後の53年間が、ひょっとして清楚の叙情ではないか、とふと過る。

《蛇足:以前、やはりこのブログで、小津安二郎監督の『東京物語』が、私にとっての最高の映画と記したが、作品中に、母の弔いの後、
香川京子演ずる末娘が姉や兄の俗性を謗(そし)り、戦死した次男の嫁役の原節子が諭す二人だけの場面がある。この一か所が、当初から私にどこか違和感を与えているのだが、その理由が、清楚の叙情に入り込んだ世俗の道徳(叙事)の浮き上がりなのか、とも思ったりする。》

結びに、『古今和歌集』(905年)の序から冒頭部分と他の部分一節を引用する。
1200年余り前、すでに日本人の叙情が、歌(文芸)創作を通して的確に表現されている。 自然と人間と表現と。そして、いつの時代も「徒(あだ)」の「はかなさ(儚(はかな)さ)」、虚しさに、彷徨(さまよ)い昇華しようとする人間を、到底そこに及ばないがゆえに私は、一層の敬愛をもって見る。

〔冒頭部分〕

やまと歌は 人の心を種として よろづの言の葉とぞなれりける 世の中にある人 ことわざしげきものなれば 心に思ふことを 見るもの聞くものにつけて 言ひいだせるなり 花に鳴くうぐひす 水に住むかはづの声を聞けば 生きとし生けるもの いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし 目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ 男女のなかをもやはらげ 猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり

 

〔他の一節〕

今の世の中 色につき人の心花になりにけるより あだなる歌 はかなき言のみいでくれば 色好みの家に 埋れ木の人知れぬこととなりて まめなるところには 花すすき穂にいだすべきことにもあらずなりにたり

(引用者注:ここにある「色好み」については、当時の貴族社会での美意識、倫理観など現代のそれとは違うことを理解して読む必要があると言われているが、ここでは省略する。)

《大意》今の時代、昔の真実を求める姿とは変わり、華美になり、歌も浅薄で、空虚なものと化してしまった。そのため歌は、真善美を愛す
る個人一人の中でのみ生き、公からは遠ざかってしまっている。

2015年11月9日

昨年に続いての「恐山」参詣の旅 ~その途次途次で拾った幾つかの覚え書き~ Ⅲ 八甲田山・奥入瀬渓谷・八幡平

井嶋 悠

『昨年に続いての「恐山」参詣の旅 』Ⅲ(最後)である。

この拙劣文は、娘の死があっての、昨年の恐山参詣の感動、驚愕での今年であり、恐山を目標地とした私たち夫婦と愛犬の東北の旅の、私のつれづれである。
だから、恐山を詣でれば主目的は達成されたとも言え、そこからの(Ⅰ)花巻・遠野で、今回(Ⅲ)の八甲田山・奥入瀬渓谷・八幡平である。

付録が時に本誌にはない発見を与えることは、少年時代の雑誌に係る思い出も含めてある。などと言えば、娘の陽気な激怒必定だが、そんなアホな私の娘であることを善しと思い続けてくれた彼女のこと、きっとサラリと見過ごしてくれるだろう。
往路の遠野の佐々木喜善記念館がそれであり、復路の今記そうとしている“紅葉狩”がそれである。

私は今日この頃になってやっと、自然と人間のことが得心できるようになった、かな?と思う。
自堕落の20代前半を過ごしていた時、「自然は芸術を模倣する」との言説に触れ、蠱惑(こわく)的直感を持った一人で、しかし今、それは人の驕りの極みであって、人間誕生以来、少なくとも日本では、「芸術は自然を模倣する」の絶対真理に、晩稲(おくて)を越えた恥ずかしさで、到りつつある。
と言っても、そもそも私に芸術を述べるほどの素養や蓄えはなく、だから「芸術」の箇所を、社会とか国とか、また私の生業世界であった学校(中高校)を置いて、そこはかとなく思い巡らせている中での直覚である。するとどうであろう!そこから日本の歪み、危うさが炙り出されて来る。

そんな私たちが、恐山からの帰路に通った八甲田山・奥入瀬・八幡平での二つ(・・)の「紅葉狩」。 一つは、手に触れることのできる「紅葉狩」、一つは、人を一切拒絶し、有無言わせず圧倒する「紅葉狩」。
前者が奥入瀬での紅葉狩であり、後者が八甲田山・八幡平での紅葉狩である。

奥入瀬渓流に沿って、バスがかろうじてすれ違えるほどの土の道の、撮影適地とおぼしき端に車が止められ、人々は紅葉に触れ、カメラを構え、紅葉狩を満喫している。平日もあって日本人の多くは高齢者で、後は外国人観光客である。
人混みを極力避けたい私たちは、それらを横目で見ながら低速ドライブで通り過ぎ、人が少ない私たちの好適地で停め、いっときの紅葉狩を楽しむ。心安らぐ静閑な時間。

最近、高齢者(多くは男性)が、見るからに重そうな高級カメラを構え、自然に向き合う姿をよく見掛ける。写真には関心が向かない、非文明的なことの多い私だからだろうか、機械を介することで自然と同化せず、異化しているよう思えてならない。その人たちは、カメラを介してより強く同化していると反論するのだろうけれど、いつも疑問が湧く。だから、私は紅葉狩の本筋、正道から外れているとさえ思ってしまう。

奥入瀬に引き替え、八甲田山・八幡平のそれは、一本一本の樹々が、自立し、天意のままに、厳然と、もみじ(紅葉・黄葉)となって全山を覆い、その山々は晴れ渡った空を突き抜ける陽光を浴び、燦然と輝いている。正しく錦繍(きんしゅう)。
能楽での衣装は装束と言われ、それは公家の有職や武家の故実の衣服を指し、歌舞伎や舞踊とは違う格調の高さを意識してのことと言う。私の少ない鑑賞経験からも、豪奢と言う言葉にふさわしい、そんな輝きの風景である。
その合い間に舗装された一本の道が通っていて、行き交う車もほとんどなく、私たちは前後左右から迫るもみじ林に抱擁され、ひた走る。時折、見晴台として設けられた場所で車を停める。

そこで出会った中型トッラクで駆けつけ、手洗いを済ませ、機敏な動きで立ち去る颯爽とした若い女性。その地の人で、仕事か何かの行き帰りなのだろう。私は清澄な大気と絢爛な林を更に高める点景を想う。
大自然を前に頭(こうべ)を垂れ、跪(ひざまず)く私たちを、人為のない自然な息吹きそのままに、心に描く。
この地に生まれ、育ち、いま生きている人、とりわけ若い人は、日本の今の都市文明と、どこで、どう折り合いをつけているのだろう、と都会人の観念的無責任さで思ったりもする。

古来、秋は寂しさ、あはれの美としてとらえられ、現代人の私たちも多くは同感する。
しかし、それらは晩秋の、里山を、鄙地(ひなち)の、それも夕暮れ時を描いているのではないか。そしてそれを表現した人たちは、当時の有識者である。

例えば、百人一首での、また新古今和歌集にある「三夕の歌」の一つは、次のような歌である。

(百人一首)[さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば いづこも同じ 秋の夕暮れ]

(三夕の歌)「心なき 身にもあはれは 知られけり しぎ立つ沢の 秋の夕暮れ」

また、才豊かにして煥発の日輪的女性清少納言は、『枕草子』の、古典中の古典として今も伝わる冒頭「春は曙。…… 夏は夜。…… 秋は夕暮れ。…… 冬はつとめて。……」で、それぞれの美を描写するに際し、「をかし《対象を観照する境地の美》」を駆使するが、秋では「あはれ《対象と一如となる境地の美》」を使っている。[左記「をかし」「あはれ」の説明は、栗山 理一編『日本文学における 美の構造』より引用。]

私たちが、八甲田山の、八幡平で出会った秋は、夕暮れの前の午後の時間であったが、気魄溢れる秋であり、「きっぱりと冬が来た (略) 冬よ 僕に来い、僕に来い 僕は冬の力、冬は僕の餌食だ」(高村光太郎)に向かう秋である。
しかし、冬が厳しいことを否定する者はいない。
萬葉集の山上憶良が歌う「貧窮問答歌」に登場する農民たちが、言葉を紡いだとすれば、寂しさの秋をどう表わすのだろう。冬への不安を、春への一層強い望みを、気魄の秋の形で歌い上げるのだろうか。

尚、「あはれ」やその背景でもある「無常観(感)」の覚醒での、生の強い意志(気魄)についてはここでは触れない。

春は万物の命息吹く季節である。

「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」[紀友則・百人一首]であり、
「その子二十歳 櫛にながるる 黒髪の おごりの春の うつくしきかな」(与謝野晶子)であり、
死への気魄「願はくは 花の下にて 春死なん その如月の もちつきのころ」(西行)である。

そして、万葉期の額田王以来、貴族間(王朝)では春秋優劣論争が繰り返され、以下に引用する解説からも、そのことを受け容れる私たちがいるが、同時に、四季折々に美があり、優劣を論ずることの頑なさに疑問を持つ私たちもいる。

――「源氏物語」における春夏秋冬の用語例は春74、夏15、秋73、冬11となる(「源氏物語大成」による)。春秋が拮抗し、夏冬が格段にすくない。この割合は「古今和歌集」における四季の部立に相応する。すなわち春134首、夏33首、秋144首、冬28首である。また、「源氏物語」における春夏秋冬の用語例は春74、夏15、秋73、冬11となる(「源氏物語大成」による)。これから見ると、「源氏」の四季観は和歌的範疇に属し、繊細優美な王朝風雅の世界を基盤としているように見える。――

因みに、光源氏は、春秋優劣を決めることはできないと語り、先の清少納言は春夏秋冬それぞれ独立して美をとらえている。

【余談】
京都の冬は、私の幼少時生活体験(60年余り前)からもことのほか厳しく、平安朝の侍女たちに焦点化する清少納言の冬の描写に、彼女の天賦の才を思ったりする。

思わぬ秋に出会った私たちは、八甲田山と八幡平の錦秋が放つ霊気をどう受け止めるか、鋭気とするか、後(しり)ごみの気とするか。

娘は、先に引用した、西行の「願はくは 花の下にて 春死なん その如月(きさらぎ)の もちつきのころ」を、こよなく愛し、天は願いを聞き入れたのか、如月(新暦3月)ではないが、命日は4月11日だった。
私は、やはり先に引用した紀友則の「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」に、「しづ心なく」を全き理解できるほどの風流人士とはほど遠いが、「ひさかたの」の響きから広がる想像に導かれ、その「光のどけき 春の日」に陶然とし、法悦にも似た恍惚世界に引き入られる。それは嘆きから気魄に変わる意思ととらえたいこととして。
春夏秋冬。それぞれの美。自然の美。「芸術は自然を模倣する」
教育は自然をどのように模倣しているだろうか。

学校教育世界にあって、今では文化相対視点は当たり前のことで、そんな中にあって「異文化理解」と「異文化理解」との言葉があり、「人間」(じんかん・にんげん)と同様、あれこれと考えが巡る。
また、「個を育てる・伸ばす」との言葉も、ずいぶん前から言われているが、今はどうなのだろうか。
「主要5科目」「芸能科(主要5科目以外の教科)」といった言葉が、初等教育、中等教育の10歳前後から18歳前後までの感性研ぎ澄まされている時期、特に抵抗もなく教師、親、大人によって使われることはもうなくなったのだろうか。
長寿化、少子化の益々進む世。肉眼でしっかりと見入り、検証する時に在るように、やはり内省、自省から思えてならない。その見入る時間を個々で持つことができる、個々が「自由」を直覚し、思考することができる、そんな世であって欲しいと思う。
しかしその時、今、世は功利という人為が最善、最優先過ぎる、と思うのは、やはり老いの(人生を春夏秋冬に見立てた、晩秋から冬の死に向かうと言うあの)愚痴でしかないのだろうか。

《追記》
拙文とは言え、少しでも自分なりの納得を持ちたく、参考資料を求めて図書館に行く。幸いにも自宅より車で20分ほどのところに、充実した市立図書館がある。新たな発見、学びも多い。今回もあった。秋に係る私の八甲田・八幡平の感激の参考となる文章を探しに出掛けて。

豊島(とよしま)与(よ)志雄(しお)の随筆『秋の気魄』[「日本の名随筆 19 秋、所収」である。氏は、1890年(明治23年)~1955年(昭昭和30年)、芥川龍之介らと共に文学活動を展開した小説家・仏文学者である。

私の言う気魄とはいささか違うが、我田引水の我が意を得たり、2箇所引用する。

(冒頭)
「秋と云えば、人は直ちに紅葉を連想する。然しながら、紅葉そのものは秋の本質とは可なりに縁遠いことを、私は思わずにはいられない。」

(終末)
「秋は、凝視の季節、専念の季節、そして、自己の存在を味うべき季節である。秋の本当の気魄に触るる時、誤った生存様式―生活―は一たまりもなくへし折られてしまうであろう。その代りに、正しい生存様式―生活―は益々力強く健かに根を張るだろう。春から夏へかけていろんな雑草に生い茂られた吾々の生は、秋の気魄に逢って、その根幹がまざまざと露出されて、清浄な鏡に輝らし出されるのである。秋に自己を凝視してしみじみとした歓喜を味い得る者こそは、幸いなる哉である。」